第1・私の生立ち・家族
私は昭和3年(1928年)8月17日、群馬県桐生市宮本町に於いて、
父・和孝と母・静子の4男として誕生した。
父母はともに小田原の出身で、父は工手学校(現・工学院大学)を出た後、義兄の小川清次郎が創業した株式会社・小川組(現・小川建設)に入社し、私が生まれた当時は桐生出張所長として同市宮本町に居を構え、そこで7人の子を設けた。兄3人、姉1人、妹2人が私の7人兄弟である。
うち次兄は4歳の時に、父の弟(後に横浜ゴム社長)の家へ養子に行った。
父は若くして小川組の幹部となり、桐生を中心として縦横に活躍し、北関東一帯に数箇所の支店網を創設し、今でも同社創業時の功労者と言われている。
(私が嘗て、同社の常勤監査役として迎えられたのも、その縁からである。)
父は小川組時代の最盛時には、群馬県建設協会の幹部を務め、大東亜戦争の中頃に同社を常務で退職し、足利で木工会社などの事業を起こしたが、あまり上手く行かなかった。
晩年は新宿に居を移し、工学院大学同窓会理事等をしていたが、昭和44年9月77歳の時、世田谷の自宅で中秋満月の夜半に心臓発作で急逝した。
母は小田原市の近在・関本の、呉服・雑貨商、関野屋の娘で、新名裁縫女学校の教師をしていた。当初、父の兄(アメリカに留学中)の花嫁候補であったが、伯父の帰国が遅れるので弟の父の所へ嫁いだと聞いている。母は信心深くて芯の強い、非常に賢い女性であった。父の没後、母は三男の昇夫婦の世話になっていたが、平成3年脳出血で倒れて1週間の入院の後、94歳で亡くなった。
父の父は和興と言い、小田原藩士の二男で御維新を迎えたが、尾山家本家の当主として小田原(後に世田谷)に居住し、私が5歳位の時75歳で他界した。
祖父の生涯は、その長男の和安(私の伯父)が纏めた、追悼録「松の雫」に詳しいが、明治11年の小学校訓導を始め、郡役所職員、足柄下郡の3カ村を束ねる戸長、小田原銀行支店長、同町会議員を17年間勤める等の経歴がある。
第2・桐生の祖父
然し、私が産まれた桐生の家には、もう1人の父方の祖父が居た。
その理由は、父は次男であるから結婚と同時に分家したが、父の叔父(祖父・和興の弟)は身寄りが無いので、父の養父(私の祖父)として我が家に同居していたのである。
この祖父は日清戦争の際、陸軍中尉として出征・従軍した勇士であるが、武士の血を引く男らしく、出征前に決死の覚悟を決め、妻を離縁して壮途に就いたので、凱旋以後は独身であった。この祖父は日清戦争後、感ずるところがあって軍を辞し、単身アメリカに渡り老境に入るまで彼の地で働いた。その間、自分の甥(私の父の兄)を含む2人の青年を呼び寄せて、留学させるなどの世話を焼いたのである。
然し、老齢となったので故国へ帰ることになったが、身寄りが無いため、甥である桐生の父の所で余生を送っていたのである。
私達兄弟は少年時代に、この祖父から厳しい薫陶を受けた。私が6歳の時まで祖父は存命であったが、畑仕事の手伝をやらされ堆肥用として、馬車引きの馬が落とした路上の馬糞拾いなどもやらされた。又ある時、年長の兄弟達は試胆会と称して、淋しい寺の墓地まで夜道を往復する等のスパルタ教育で鍛えられた。 お手伝いが子等を気の毒に思い、提灯を差し出したりすると、頑固爺さんの逆鱗に触れたと言う。
この祖父の葬儀の日(昭和9年11月)は、昭和天皇が北関東で陸軍の大演習を御覧になるため桐生に行幸される日と重なり、祖父の葬列の車が進む時、街中人の気配が無く他に車は全く走っていなかったのを私は良く覚えている。
第3・桐生市立・北小学校
1・いたずら少年
私は桐生で生まれ、小学校を卒業するまでの12年間を、そこで過ごした。
桐生市は関東平野が北に広がって、山岳地帯に正に突き当たる所に在る街である。
東西と北を山で囲まれ、東西に2本の川が流れて居たので、関東の「小京都」とも言われた。人口は約10万人だったが、当時は織物業が非常に盛んで、活気に溢れた山紫水明の美しい街であった。
私が生まれた宮本町は、桐生市の北部山の手に位置していたので、学校の教師等が多く住んでいた。小学校は市立・北小学校に6年間学んだ。私達の兄弟は皆学業成績は良い方だったが、体が弱く痩せて腺病質と言われていた。
父は子供等を何とか丈夫にしようと考え、私が1年生の時は小田原の海岸近くの魚屋の2階を1夏借切って、母以下子供等全員で夏休みを過ごした。2年生以降は父が水戸市の南の大貫海岸に別荘を建て、毎年夏休みになると子供等は全員、母、お手伝いと共にそこで一夏を過した。その家は海岸から150メートルくらい離れた砂地の高台に建っていたが、此処には楽しい思い出が一杯残っている。東隣りには俗称「宇都宮の3軒別荘」が既に先に建っており、直ぐ隣の佐藤家(弁護士)の子供で渾名が「豪傑」「ガラ正どん」などと言う子等とよく遊んだ。波の荒い前の海岸で海水浴をし、地引網を手伝って魚を貰ったり、裏の砂山で隠れん坊をして遊んで、少年時代の悪戯や楽しい遊びを一杯することが出来た。東京の叔父の家に養子に行った次兄の繁も、夏休みには一人で海の家にやって来て、皆と楽しく一夏を過ごした。
私が小学校の高学年になった頃、姉は桐生の女学校を出て、東京の家政学院という花嫁学校に学生寮から通っていたが、夏休みになると籾山さんという大きな織物業(小川組の上得意)の娘さんで、大変美人の同級生も一緒に此の海の家に来ていた。
或る日2人の娘さんは海岸伝いに水戸の町へ出掛けた。悪戯盛りの我々兄弟は、いずれ帰って来るのでその時を狙って、砂の落し穴に落としてしまおうと悪巧みを計画した。
海岸から家に来るには、棒杭が2本立った間を通るのが習いだったから、悪太郎達はそこに2つ穴を掘り、細い棒を編んで蓋をし、その上を紙と砂で覆い隠して待っていた。
やがて2人は日傘を差してしゃなり、しゃなりと歩いて帰って来た。悪餓鬼供は家の中で隠れて覗きながら、2人が落ちるのを今や遅しと、固唾を呑んで待っていた。
だが、最初の1人は棒の間を通らず、外を廻って無事通過してしまった。失敗したか!と思った瞬間、後の一人がドスンと落ちた。前の一人が驚いて駈け寄るとこちらも、
もう1つの穴に見事に落ちた。我々が快哉を叫んだのは言うまでも無いが、その後散々に追い回されて、こっぴどく怒られた。
2・軍人への立志
私は小学校では元気な張り切りボーイで、1年から成績も良く(1年1学期の図工だけが乙で、他は6年間全部甲だった)級長を置く学年からは、ずっと級長を勤めた。
卒業式では卒業生250人の総代として答辞を読んだが、式場に入ったら、日頃一度も学校に来たことの無い父親が、来賓席の末席に嬉しそうに座っているのを見て、前もって知らされていなかったので非常に驚いたのを覚えている。
昭和16年春の卒業なので、私は軍国主義の全盛期に少年時代を過ごした事になるが、陸軍中尉だった養祖父の影響もあり、また隣の藤田さんが桐生工専の配属将校のお宅で、陸軍大佐のご主人が凛々しい軍服姿で出勤されるのを「格好いいな!」と思って見ていたから、軍国少年の私は至極当然に陸軍士官になることを熱望するようになった。
それには中学4,5年から陸軍士官学校に行かなければならないが、その前に中学1年又は2年から陸軍幼年学校に行き3年間学べば、無試験で陸士に進めることを知った。
また、当時の少年雑誌で、幼年学校での生活を活き活きと伝える「星の生徒」と言う小説があり、これを貪るように読んで益々幼年学校への憧れの念を強くしていた。
然し、それまで桐生中学からも成績の良い人が何人かトライするが、幼年学校の試験は非常に難しく中々合格しないのである。私は色々調べた結果、東京の牛込に日本一多数の幼年学校合格者を出している私立・成城中学校が在ることを知り、下宿して其処で学びたいと思い父に願い出た。
父は目が悪かったので兵隊検査は「第二乙」の不合格で、兵役に服していないことを予てから恥ずかしく思っていた。又あの時代は一家で誰か軍隊に行った男が居ないと、肩身が狭く感ずるような時代だったから、父は私の軍人になりたいとの希望と、東京への遊学の申し出を大変に喜んで、即座に許してくれた。
(続く)
小生の自分史をご覧頂き、有難う御座います。
小生からしても少年期の思い出は記憶の遠く彼方に有り、
老生ながら純真だった子供時代を思い出しながら、此の様に自叙伝の序盤をご紹介致しました。
