第4・成城中学
1・下宿と受験勉強
当時の中学入試は内申書制だけだったが、私は希望通り成城中学に合格した。下宿先は父の部下の金子さんの実家が牛込に在ったので、そこにお願いする事となった。
成城では1学年300人を6クラスに分け、其の内2クラスしか陸幼受験の特別補習をしない事になって居た。その2クラスを選ぶには、入学後、再度筆記試験があり、殆どの新入生が受け、かなり難しいものだったが運良くパスした。
陸幼は中学1年修了から(現役)と、2年修了(1浪)から受けられたが、成城では
1年生6クラスの中から選抜した2クラスと、2年生(1年で受からなかった人達1クラス)を、「予備科」と称して、放課後に2時間の特別補習を受けた。
この補習は徹底していた。受験科目(国語、数学、地理,歴史,理科,作文)をベテラン
教師が講義し、毎月本番そっくりの用紙で模擬試験が在って成績表を壁に張り出し、
父兄を呼んでは教師と話し合うのである。
下宿は中学校から2~3分の所にあり、金子さんと言う棟梁のお宅であった。
そこの長男が小川建設に入ったばかりで、桐生出張所に配属になって居たのである。
下宿では2階の八畳一間を提供してくれて、私は[坊ちゃん]と呼ばれ、とても大事にしてくれた。
然し、自分で言い出した事とは言え、13歳の地方出の少年が初めて親元を離れ、大都会で他人の飯を食うのは辛い事だった。 家から手紙が来ると、読む前から涙ぐんでしまった。布団に入ると、懐かしい桐生の家の情景や、家族の顔が瞼に浮かんで来た。
一方、自分の家から通っている同級生達は、羨ましい程快適な環境で勉強しているように思われた。同級生には高級将校の子が多く、その親達は息子を陸幼に入れようと必死に応援している様子が良く分かった。夜遅くなれば夜食を作り、寒い時はアンカを入れ、物音一つ立てず、静かに勉強に集中できる状況を作り出して居る様であった。
模試を何回か経験して居る内に、私は数学が不得意である事が分かった。他の科目は上位の成績が取れているのに、数学は何時も低空飛行だった。然も、数学の配点が120点と最も高いのである。
やがて夏休みが近付いて来た時、教師から[夏休みに遊んだら絶対に受からない。]と言われた。私は夏休みの初日、夢にまで見た懐かしい桐生の我が家に帰ったが、たった一晩泊っただけで、驚く母親を尻目に翌日下宿へ舞い戻ってしまった。
そして、不得意の数学の問題集を何回も繰返し練習した。
秋になるとその効果が少しずつ出て来て、数学の点が上昇するに連れて、全体の席次がぐんぐん上がり出した。教師は「こう言う経過の生徒は受かるぞ!」と言って呉れた。
いよいよ追い込みの頃、ある出来事があった。
下宿には3~4歳の男の子が居た。とても可愛いのだが、よく大声で泣き止まない事があった。或る夜、模試が近付き勉強に集中しようとしていた時、その子が泣き出し、中々泣き止まなかった。私は級友達が静かな部屋で勉強している姿を思い浮かべ、堪らなくなって下へ降りて小母さんに「少し静かになりませんか?」と言ってしまった。
何時もは優しい小母さんであるが、その時はキッとなって子を抱きかかえ、「坊ちゃん、赤ん坊は泣くのが当たり前です。それが煩いと言われるのなら、お世話は出来ません!」と言われた。私は直ぐに自分の非を悟った。「しまった!」と思い、「分かりました。
済みませんでした。」と謝って二階の部屋に戻り机に向かったが、ただ無性に悲しくて涙が止めどなく溢れて来た。そして、「兎に角、1年で陸幼に合格したい。そうすればこの苦しみからも抜け出せるのだ。」と思った。
今から思えば、私の幼さ、甘え、世間知らずのなせる事なのだが、この事件は其後の私の人格形成に相当影響したと思っている。やがて冬に入った頃、私の模試の成績は上位に定着して、合格の可能性は可成高くなっていた。
2・陸幼入試
(1)体格検査
幼年学校の入試は体格検査が先にある。何月か忘れたが、寒い時、赤坂の連隊で体格検査が行われた。全部一通り終わって、最後の判定を下す所に軍医少佐が居た。
私が前に立つと少佐は気の毒そうに「君は筋骨薄弱で駄目だ」と告げた。つまり、合格基準より、身長・体重ともに少なくて、不合格だと言われたのだ。
私は呆然となった。勉強にばかりに没頭していて、体格検査で落ちるとは夢にも考えて居なかったからである。
だが、その時私は粘った。田舎から一人上京し、下宿で頑張って居る事を話し、何とか学科試験を受けさせてくれるよう頼んだ。すると軍医は言った。「学校の成績は何番か?」私が「3番であります。」と答えると、「それは君、クラスで、だろう」と、それ位では駄目だという感じで言われた。
「いや、学年であります」と言うと「本当か?」と言って机の中から資料を出して見て、「あ、本当だ。良し、では、春までに魚でもうんと食べて、もっと太って来い。合格。」と言って判を押してくれた。当時東大入試と並んで最難関と言われた幼年学校に、毎年数十人の合格者を出す中学の3番だから、軍医も気が変わったのだと思う。「やれやれ良かった」と、胸を撫で下ろして学校へ帰ると、教師が飛んで来て「おい、体格検査どうだった?」真顔で聞くのである。教師は私がクラスで2番目に小さくて、しかも、
痩せているので今までの経験から、私の体格検査は危ないと思って心配して居たらしい。私は一寸癪に触ったので、「受かりましたよ!」と言って詳しい事は話さなかった。
この軍医の規則破りの措置は、結果としては正しかったと思う。何故なら人間の成長には早稲と晩生とがあって、私は完全に後者だったからである。陸幼に入ってもビリから2番目に小さかった私は、「保護生徒」で、最初の半年は過激な運動は見学で、食事も特別のメニューであった。その為か3年間で計21センチ伸び、今、同期会で集まると背は大きい方である。
学校の成績のお陰で体格検査を命拾いした格好だったが、ここで受験と中学校の成績の関係に就いて一寸触れておきたい。
一年の一学期が終わる頃のある日、学校に行ったらクラスの皆が「俺の成績はクラスで
○○番だ」と騒いでいる。私は自分の平均点は知っていたが、席次は知らないので担任のところへ聞きに行った。すると、教師は怪訝な顔をして「君は1番だよ。昨日姉さんに言っといたよ。」とおっしゃる。確かに前日に父兄会があり、私の父母は遠くて来られないので、何時も姉(家政学院と言う花嫁学校の寮に入っていた)が親の代わりに来て呉れていた。然し、昨日の父兄会の後は、何も言わないで帰ってしまったので、早速姉に電話して文句を言うと、「1番だと言うと慢心して勉強しなくなるといけないから、言わなかった。」と言った。
だが、これは見当違いも甚だしい事だ。何となれば、私(達)は幼年学校に入るのが唯一の目的であって、学校の成績など問題にしていない。受験科目以外の音楽,英語などの授業には誰も力を入れず、また、期末試験等には眼もくれないで、専ら受験科目の勉強だけに専念していたからである。然し、姉はこの点を全く理解していなかったのだ。
兎も角、私はたまたま学年の成績が上位だったので、体格の不合格を免れた訳で、矢張り学校の成績も良い方が得するのだなと、その時は思った。
だが、今となると、あの時無理して1年で合格していなければ、又違った人生が良い方に開けていたかもしれない等と思い廻らす事がある。
(2)学科試験
陸幼の学科試験は相当難しかった。特に数学では星と地球の間の膨大な距離を計算する問題や、駆け足と普通の歩きを交互に行う行軍の所要時間の計算などは、最後の詰めが要求される厄介な問題だった。他の国語、地理、歴史、理科は特に問題は無かった。
一番自信があったのは作文だ。 出題は「朝」だったが、私は「朝は一日の始まりで、
人間で言えば少年期、詰まり我々の時代に相当する」と言う論法で説き起こし、中盤は我が国の現状等を述べ、結びでは「我々少年が、やがて成人して非常時の日本を背負って立たなければならない。」との決意を披瀝した。
3・ 合格
そして昭和17年2月頃、憲兵が身元調査のため私の身辺をうろついた後、菜の花が咲き出す頃に、首尾よく1発で陸軍省教育総監部からの幼年学校合格通知書を手にした。
かくして私は、桐生で小学六年生の頃に志を立てた人生の目標に向かって、確実に第一歩を踏み出したのである。 配属先は大阪陸軍幼年学校であった。
第5・大阪陸軍幼年学校
1・入校
昭和17年4月、父母に伴われて、憧れの大阪陸軍幼年学校に入校した。
学校に到着すると先ず衣服の着替えから始まったが、驚いたことには下着から軍服に到るまで全部各人の名前が記入されていた。下士官の指導で先ず褌を着用するのだが、
次に驚いたのはズボンを穿く時「○○は左側に入れよ」と来た。何と陸軍では男の一物を入れるズボン(軍隊では袴と言う)のサイドまで決まっているのだ!
やがて向こうから陸軍少佐が近付いて来て「おい、尾山!帽子がアミダ(上向き)である。」と注意された。自分の胸に名札が付いているかと見たが何も無い。初めて会ったのに、私の名前を知っている!これにも驚かされた。後で分かったのだが、この方は私の生徒監〔指導将校〕で、予め写真で50人の受持ち生徒の名前と顔を、殆ど記憶していたらしい。(この方法は、私も税関の幹部になった時、随分と活用させて貰った。)
私はやはり背が2番目に小さかったので、ズボンは下を捲り上げないと穿けなかった。
2・保護生徒
私は入試の体格検査が「筋骨薄弱」で不合格のところを、偶々、中学の成績が良かったのと、軍医のお情けでパスしたが、ツベルクリンの反応が陽性だったので、6ヶ月間は「保護生徒」として扱われた。体操、教練などは全て見学で、食事は栄養のある特別食であった。飯は半麦だが、一日6合でとても食べ切れなかった。 当時、民間の配給は一日2合3勺程度だったと思うが・・・
私は体力が無いから、午後6時から8時の自習時間は疲れて殆ど寝ていたが、生来、晩生(おくて)の体質だから、その後徐々に成長し、卒業時には身長は班の真中辺まで上がっていた。然し、体重が無いので柔道や剣道では、中2から来た早生の同僚の猛者達に、何時もやられて悔しい思いをしていた。
3・スパイ志望
入校して間も無い頃、同期生の一人が病気で大阪の陸軍病院に入院したので、数人で見舞いに行った。その時市内で生徒監とばったり出会って、偕行社で昼飯をご馳走して頂くことになった。食堂では「貴様は何故幼年学校に入ったのか?」と聞かれたので、
「将校になり、将来は軍のスパイになりたいであります。」と答えると、「馬鹿者!幼年学校はそんなつもりで貴様等を教育しているのではない!」と、真剣な顔でどやされた。
4・金剛山の初登山
大阪陸軍幼年学校の真東には、楠木正成で有名な金剛山が聳えていた。学校では楠公の七生報国の尽忠精神を生徒に教え込もうと必死になっていた。
一方我々は訓育班の中で、誰が一番初にあの山に登るかを密かに競い合っていた。
一年生の晩秋の頃だったと思うが、竹下、志々目、安尾、尾山の4人で金剛山一番乗りを目指して、夕食後出発した。途中で強い雨になった。真っ暗な山道を夜通し濡れて歩くのは、予想以上に体力を消耗した。頂上に辿り着いた時はヘトヘトで、道には雪が深々と積もっていた。頂上の神社の神職は我々を見て「よく登って来たね。」と驚いていた。
入校時虚弱児だった保護生徒の私も、段々鍛えられて1年生の終わり頃には、こように、かなり逞しく成長していた。
5・大台ケ原山行
2年生の校外演習では吉野から入山し、4日間掛けて、紀ノ川沿いを遡り大台ケ原の山頂に立ち、更に熊野灘方面に下りて、尾鷲まで山地行軍をしたことがある。
途中、理科の研究で石灰岩と水質の関係などを調べながら登るのだが、最初は滔々と流れていた紀ノ川が、山道を遡るうちに、遂にちょろちょろの水源になるのを目の当たりにした。石楠花が群生する大台ケ原山頂の幽玄な雰囲気と、尾鷲の国防婦人会の方が炊出してくれた、魚の炊き込み御飯の美味しかったことは、今でも忘れられない。
6・模範生徒
3年生の中から模範的な生徒を選んで、1年生と同じ寝室で起居を共にし、1年生の生活指導をさせる制度がある。(授業の時は3年生として、同期の皆のところへ合流する)
我々も入校時は全てこの先輩(模範生徒)に教えられたもので、何でも知っている神様のような存在として目に写って居た。
私は模範生徒として、正田君(旧姓中末)と共に、2期後輩の48期第5訓育班に派遣された。 自習室や寝室で、60人の1年生の中に2人だけ上級生が居る訳である。
この模範生徒は仇名で「護民」と呼ばれていた。その理由は一般の3年生はよく1年生に難癖を付けて制裁を加えたがるが、これから後輩を護るのが1つの仕事であるからだ。従って、通常は成績優秀、生活態度が真面目で、かつ腕力のある者が指名されるのだが、どう言う訳か正田君も私も細身だった。
この頃、食堂の食事が無くなる事件が頻発した。誰かが先に食べてしまうらしい。
そのうち、どうも我が第五訓育班のT君が犯人らしいとの目撃証言が出てきた。
正田君と私は後輩の情操教育の責任まで負わされている訳ではなかったが、消灯後T君を呼び出して問い詰めた。返事を渋る彼に1発かますと(私の3年半の軍隊生活中で、人を殴ったのはこの時だけであるが)、彼は犯行を自白した。
翌日担任の生徒監に報告し処置を委ねたところ、審議の結果は厳しく退校処分だった。
将校生徒を教育する幼年学校の校則は「品性高潔、学術優秀ならざるべからず。」と謳っているので、止むを得ない処置だったのかと思う。
7・卒業
昭和20年3月17日、B29が漸く大阪上空を飛び交うようになった頃、我々は3年間の訓育を終えて、大阪幼年学校を卒業して陸軍予科士官学校へ進学することになった。
生徒監、教官、在校生に送られて校門を出た後、4月1日の陸士入校まで、一旦家に帰るべく大阪駅に向かった。着いてみると駅週辺は前夜の空襲で未だ燻ぶっていた。
その時、偶然横浜ゴム社勤務の叔父の一行に出会った。近くの店で会食し、私は陸幼卒業のことを話した。 後日、伯父の知り合いでその時一緒に居られた有名な俳人から、掛け軸になった次の句を頂戴した。
鵬雛の 巣立ちする日や 富士真白
当時の新聞には幼年学校生徒のことを、よく「陸軍の鵬雛の1日・・・」等という表現で記事が載っていたのを思い出す。
第6・陸軍予科士官学校
1・入校時の遺書
陸幼を卒業した後陸士入校まで、1週間余りの休暇を古河の実家で過ごすことが出来た。昭和20年の春と言えば、戦争の様相は一段と厳しくなり、大都市の空襲は連日の如くで、敵の本土上陸も眞近いと思われた。
17歳の私は徴兵された訳ではなく、未だ陸軍将校生徒の身分であったが、陸士に入校すれば優秀な兵士として本土防衛戦に巻き込まれ、生還は期し難いと覚悟した。
家を出る前日、父母宛てに遺書を書いた。今までの養育に感謝し、これからは国を護る為、老幼婦女子の為に、一命を投げ出す覚悟である事を述べ、別れを告げた内容である。然し、直接手渡すのは恥ずかしく、自分の本棚に差し入れて家を出た。6ヵ月後に敗戦で復員してくる訳であるが、その時は真剣に死を覚悟していた。
復員後に、真っ先にその遺書を探したが、親が処理したのか見付からなかった。
2・陸士で爆撃に会う
昭和20年4月、私は陸軍幼年学校を卒業して陸軍予科士官学校に入校し、朝霞の振武台に於いて、日々学科と訓練に励んで居た。その頃は、米軍の本土空襲が毎日のように有り、その日も空襲警報が発令されていた。やがて、B-29の30機位の編隊が、南の方角から6千メートル位の高度で、真北に向かって飛んで来るのが見えて来た。 敵の爆撃機隊は士官学校の真上を過ぎてから大きく右に旋回して東京や他の都市に向かい、爆撃を実行して南方洋上へ離脱するのが常であった。
私の壕は生徒舎の側にあり、警報発令時には壕の中へ入っているように指示されて居たが、その日は少し暑かったので私は壕の入口に腰掛け、敵機の編隊を見上げて居た。
やがて編隊は頭上に差しかかって来たが、以前幼年学校で物理の教官から「爆撃機から投下された爆弾は斜め前方に落下し、その飛行機が真上に来た時に地上に到達する。」と聞いて居たから「これで今日も此処には爆撃は無いな」と思った瞬間、左斜め上空から小鳥のような物が5~6羽右下へ向かって降りて来るのが目に入った。
「雀か?あっ、羽根が動かない。爆弾だ!」と思うのと同時に壕に飛び込んだ。物凄い轟音と地響き、土壁がぐらぐらと揺れる。思わず鉄兜の上から腕で頭を抱えた。やがて轟音と揺れは収まり、「あゝ、助かった。」と思う間もなく、近くに立ち籠めた土煙の向うから下士官が「円匙(軍隊用の小さいシャベル)を持って助けに来い!」と怒鳴って居た。
この空襲で同期生11人が戦死した。投下された爆弾は僅か5発だったが、その正確さは敵ながら見事なものだった。東西に並んでいる30棟の生徒舎の真ん中の道路に、5発が等間隔に落ちていた。 それは明かに悪戯であり、挑発であったと思う。
いずれにしても、この「いたずら爆撃」で一番恐れをなしたのは、士官学校の幹部達だったと思う。「本気で来られたら、1度で全滅だ!」と思ったに違いない。
その事は、その後ごく短期間に生徒の約半数(地上兵科の者だけ)を、群馬の山中等に疎開した事を見れば明らかである。地上要員だった私等は、八月の始めに慌しく浅間山裏の新鹿沢演習場に疎開し、旬日後その地で終戦を迎える事となったが、あの日、朝霞の防空壕の側で見た小さな黒い物体の影は、今でも鮮明に覚えて居る。
新鹿沢で終戦の詔勅を聞いた時は、矢張り負けた口惜しさと、子供の時からの夢だった陸軍将校に成る道が完全に断たれた無念さで、涙が頬を伝わった。
3・内部抗争
予科士官学校の生徒の構成は、幼年学校出身者と中学校出身者から成っているが、1対4位の割合で幼年学校出身の人数が少ない。中学からは4年または5年を修了して入ってくるので、幼年学校に中1または中2から入り3年間を経た者と年齢は同じである
しかし、この両者はあまり仲が良くなかった。未だに陸士の同期会に行くと中学校出身から、当時の幼年学校出身者の行動への非難を聞かされることがある。
同じ国軍の将校を養成する学校の同期生で、どうしてこんな事になったのか。
一般的に言って、私は幼年校出身者側に原因があると思っている。
陸士入校当初において、3年間の軍隊生活の経験の差は大きく、人数は少ないが幼年校出身者が何かとリードすることが多い。幼年校組は全国の6校から来ているが直ぐに団結して、軍隊に慣れていない中学組を批判し軽蔑して、切磋琢磨と称して不要な暴力を振るうこともあった。
悪い事に、年齢も17~8歳だから、無性に暴力を振るいたくなる年齢でもある。
私が未だ大阪の幼年学校にいた時、既に任官した先輩が遊びに来て曰く「貴様等、予科に行ったら絶対に中学出身者に負けるな!」と煽動した事がある。私が「何時までいがみ合っているのですか」と聞くと、「なーに、本科に行くと仲良くなるよ」との事。
それなら初めから仲良くすればよいのに、変な話だと思い、私は賛同出来なかった。
そして予科に進むと、各幼年校の出身者は結束して中学出身者に対抗しようというムードがあった。しかし、それは良くないと思い、私はその動きに一切加担しなかった。
現在、各地で区隊会が開かれるが、これに出席しない幼年学校組は沢山居る。
陸士の在校が6ヶ月と短かった事もあるが、当時の軋轢(中学出身須者に加えた暴行)が原因で出たくない者も多いのではないかと思う。然し、私は区隊会に就いて全く違和感無く、始めから殆ど出席して、忘年会・旅行と大いに皆と楽しく会合している。
4・体力検定
その頃日本では青少年に対し、走る、跳ぶ、投げる、運ぶ等の体力検定を行い、初級、中級、上級とランク付けをしていた。陸士でも体力検定があったが、民間で行っているより更に厳しく、中級の場合は、倒立(10秒以上)、鉄棒(蹴上がり・巴・大振りの連続技)、水泳(50mのタイム)が付加されていた。
私は倒立と水泳は駄目だが、他の種目は中級の資格をクリヤー出来る自信があった。
然し、諦めていた倒立は検定の本番で生まれて初めて、10秒間立つことができた。
残る水泳は、幼年学校で平泳の遠泳で十分鍛えられ、10キロ泳ぐのも可能だったが、スピードが出るクロールは習っていなかったので、これで失格するなと思っていた。
ところが、水泳テストの直前に足の裏の魚の目が痛み出し、摘出手術のため入院する事になった。この間に水泳テストは終了していたので、退院後区隊長に呼ばれ、「水泳は速く泳げるか?」と聞かれたので、「はい。大丈夫であります」と元気良く答えると、
「帰ってよし。」で、見事陸士版の中級に合格した。以後は体操帽に黒の1本線が入り、中級以上は区隊内で2~3人だけなので得意になってその帽子を被っていた。この検定制度のことは、今皆に聞いても余り関心が無かったのか、殆どの者が覚えていない。
5・疎開・敗戦・復員
先に「爆撃に逢う」の項で触れたように、8月の初め陸士の地上兵科の者は、米軍の空爆を逃れるため、群馬、埼玉の田舎に大挙して疎開した。私の隊は浅間山の裏の新鹿沢温泉に疎開した。夜行軍で赤羽まで出て、上越線で上田、さらに真田から完全軍装で行軍して新鹿沢の演習場へ着いた。 途中鳥居峠を越える時は、落伍者が続出してトラックで収容して進んだ。この行軍の際私は分隊長を仰せつかったが、役目で隊の前へ行ったり後ろへ行ったりで、人より相当余計に歩かなければならなかった。
鹿沢は寒冷地で谷の水は夏でも冷たくて手を入れていられなかった。そして、水が悪いのか到着後、殆どの者が下痢をした。
授業と教練を一週間くらいやった頃、正午に重大放送がるので、正装をして集まれと言われた。広島に新型爆弾が落ち、ソ連が参戦したので、天皇が我々を激励するのだとばかり思っていた。聞き辛かったが戦争に負けたのだと分かった。ただ呆然として、負けた口惜しさも在り、無性に涙が出た。然し、心中では、「ああ、これで生きて家に帰れるな!」とも思った。
その夜、将校や下士官達は一様に荒れた。軍刀で立ち木を切る者、拳銃をぶっ放す人も居た。我々は「米軍は将校生徒を見逃さないだろう」とのデマが飛んで、身分を隠すため教科書を焼いたり、階級章を外す作業をしたり、将来の不安を語り合ったりした。
9月末頃、新鹿沢を後にして鳥居峠を越えた。下痢で体力が落ちているので非常に苦しかったが、真田から上田を経て家族の待つ足利の家に復員した。
(続き)
小生の同期中で成城中学から大幼に進学して模範生徒と成ったのは小生だけで有ります。
模範生徒とは陸軍幼年学校の中で一年生に対して指導的な立場と成る成績優秀な三年生の事を指します。
小生は陸幼時代は小柄では有りましたが、三年生に成った頃には身体が大きく成り、模範生徒を務めて居りました。
其れでは投稿の続きをお楽しみ下さい。
尾山喜一 拝