19・函館税関長(昭和58年7月)

函館の1年は忙しく、そして楽しい一年だった。管内は全道と東北の北3県(全国面積の3分の1)だから、各支署を視察するだけでも大変な事である。函館には家内も同行したので、寒地での1年間を風邪も引かずに、元気に勤め終えることが出来た。

この頃娘達は2人とも既に社会人になっていたから、2人で家を守り、自立する訓練をさせる意味で家に残した。 友人達は「無用心だ。」と言ったが、家内を残しても同じことで、今となれば親離れ・子離れと、自立を促す意味で良い処置だったと思う。

函館税関には二百数十人の職員が居たが、陸幼の生徒監の真似をして出来る限り写真で名前を覚えて、視察で出張した時等いきなり名を呼んだので、皆が大変驚いていた。

釧路支署視察の時は、宿を陸士同期の小枝君が社長をしている登別グランドホテルに変更させた。秘書達は怪訝な顔をしていたが、その夜私が到着する以前から、小枝社長が待ち遠しくて、夜遅く寒い玄関前に出て待って居るのを見て納得したようだった。

また、当時自衛隊の真駒内師団長は陸士同期の久山辰治君だったので、観閲式には税関長ではなく同期生として呼んでくれた。

娘の玲子はピアノ教師で、比較的仕事の自由が利いたので1年間に7回も飛んで来て、官舎を根拠地にして家内と2人で北海道の各地を旅行して楽しんだ。暮れになって私と家内が横浜へ帰ろうとしたら、娘たちは「私達がそちらへ行く。」と言って飛んできた。そして雪のクリスマスと正月を官舎で皆と過したのは、今となれば楽しい思い出である。

札幌雪祭りには金沢文庫の義父母も来道し、登別の小枝君のホテルに泊まり、札幌では大幼の後輩・渡辺 剛君(故人)のお世話になって、雪祭の雪像等を見物した。

また、松尾さんも三井生命の人と一緒に来函され、夜は松風町で会食し、翌日は大沼プリンスCCでゴルフのお付合いをした事も、今となれば懐かしい思い出である。

松尾さんの現役引退のパーティーの時も、私は北海道から駆け付けるつもりでいたが、夏で国会議員の国政調査とぶつかり、参加できずお詫びした事もあった。

横浜税関で私が輸入部次長の時に、総務部長をして居られた中島さんが、北海道財務局長として同じ時期に着任されたが、中島財務局長が函館方面に視察にこられる時に、  面白い話があった。

その少し前に函館財務部長が私の所に来て、「局長が視察に来られるのですが、『税関長の居る時でなければ行かないよ!』と言っています。一体どう言う御関係でしょう?」と聞くので、それまでの経緯を全部話して納得して貰った。

来函された局長とは、料理屋「松源」で一杯やりながら「北海道で、又二人で飲むとは思わなかったね。」と感慨を語り合った。

また、例の大韓航空機撃墜事件の丁度1週間前の日、私は管内視察に来られた垂水関税局長を案内して、稚内の海辺に在る旧海軍のバルチック艦隊用の望楼に登っていた。

局長は「税関長、ここは国境の税関だから、何時何が起きるか分かりませんよ。普段から十分勉強して置いて下さい。」と言われた。その予言は見事に的中し、1週間後に最も不幸な形で事件は起きた。 事件発生後稚内には国内外から大勢の記者達が詰め掛け、世界中の耳目を集めた。そして、局長の言葉どおり、漂着する遺品を処理する極めて異例な税関事務が発生した。私は稚内支署長に、遺族達の心情を汲んで最も簡便な処理をするよう指示した。

色々在った函館の1年間は、忙しくも又楽しくてアッと言う間に過ぎたが、此れは労務対策が最も困難だった時期に、懸命に頑張った私に対して、役人生活の最後に大蔵省が

「ご苦労さん!」と、プレゼントして呉れた御褒美だったような気がしている。

(続く)


内地生まれ内地育ちの小生としては馴染みの無い北海道の地に赴任する事と成り、
試行錯誤を致しましたが、「任地の人に成り切るべし」との一念を以て地元の方々と打ち解け合い、
懐に入り込む事を旨として職務に励んで居りました。此の時期に取材を受けた記事が有りますので
ご紹介致します。


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次は愈々三菱商事時代の述懐と成ります。
宜しくお願い致します。





尾山喜一 拝



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