趣味
1・歌
私は趣味が多い方で、変遷もあるが一貫して歌が好きだった。小学生時代は、女学校に通っている姉の歌う少女歌曲は直ぐ覚えて歌っていた。又、低学年の頃、「無情の夢」の「・・・命を賭けた恋じゃもの・・」のくだりを大声で歌いながら家に帰ってきて、母親に大変叱られたことがあった。
幼年学校へ入ると軍歌ばかりだったが、時々校庭の隅に行って誰にも聞こえないように「誰か故郷を思はざる」等の流行歌を歌ったものである。
戦後は歌曲、コーラスに興味を持ち、男性合唱、混声合唱を実践した。
好きなジャンルはロシヤ、ドイツ、イギリス、アメリカ等の外国の民謡である。
先年イタリヤ・ナポリを旅した時、レストランでギターを持った流しがやって来た。
外国人のテーブルでは誰かしら歌うが、日本人は下を向いて誰も歌はない。
私は国の名誉にも関るような気がして、やおら立ってナポリ民謡「サンタルチヤ」を原語で歌った。
今でも興が乗ると家で2時間くらい、愛唱歌を歌うことがある。カラオケは今では老人会のカラオケ愛好会に入り、月に2回楽しんで居る。
函館勤務の頃は全盛期で、ある日の帰宅途中、カラオケ大会をやっているキャバレーの前を車が通った。そこで降ろして貰い参加した。結構客が大勢入って居て、バンドも入っていた。大会にはソロの一部と、デュエットの二部があり、審査員はバンドマスターや、支配人等である。
全員が歌い終えて暫くしたら、支配人が来て、「お客さんが1,2部とも一等賞です。
然し、両方商品が同じなのですが、どうしますか?」と聞いた。私は同じものを貰って帰った。港町のキャバレーでの余興だったが、何となく愉快だった。
ところが翌日登庁すると、総務部長の本多君がきて、笑いながら「税関長、余り変な所で歌わないで下さい。」とたしなめられた。
誰か見ていたのだ!私は夏目漱石の「坊ちゃん」の中で、先生の街中の行動を、生徒が全て知っている場面を思い出した。(本多君とは他にも因縁が深いので別項で書く。)
今でも陸士の会合等でも酒が入ると、カンツォーネをリクエストされ歌うことが多い。近頃は歳と共に声量が落ち、特に声の艶とか、粘りが欠けてきたように思うが、好きな歌はこれからも折にふれ、歌って行きたいと考えている。
2・謡
古来、謡は武士の嗜みと言われていたが、士族だった尾山家では祖父、父、叔父さんと皆観世流の謡をやっていた。私も幼い頃から聞いていたから、謡には興味があった。
社会人となって20歳代後半の頃、税関の職場に謡(喜多流)の同好会出来た時、直ちに入会した。稽古は、月2回、素人先生に就いて10人位が一緒に習うのだが、テープもとって無かったので、謡は少しも身に着かなかった。3年程習った時から私は忙しいポストにばかり配属され、全く稽古に出られなくなって稽古本だけが溜まる状態だった。其の後、30数年も放置していたから、大蔵省を退官して三菱商事に居た頃の謡の腕前は、初心者同然であったと思う。
3・パソコン
パソコンが趣味と言えるか否か分からないが、やってみると大変面白い。パソコンを初めて買ってから4年になる。それ以前は目が疲れるとか、或いは運動不足になる等で、やらないと決めていた。 然し、多くの友人がやるので始めてみると非常に便利で面白く、絶対に年寄り向きの機器だと思う。
今では家内もパソコンを持って居り、2台はルーターで家庭内無線ランを組んでいるので、非常に経済的であるし、夫婦間の話題も提供してくれるので大変具合が良い。
私の利用方法は、メール(会社との連絡は全てこれによっている。)、インターネット、デジカメ印刷、ワープロ機能などが殆どだが、今や無くてはならないツールである。
操作や用語の難しさはあるが、次女の婿殿東大法学部卒だが、電気関係を専攻したかの様に、滅法ITに強いので、来宅した時は専ら山積した難問を解決して貰っている。
4・英会話
今更この年で英語が上達して別にどうって言う事も無いが、私の場合英会話は勉強ではなく完全に趣味である。
幼年学校時代から露語の読み書きよりも会話は大好きだった。秀才が大勢いるクラスだったが、会話の授業の時は白系露人の先生から、何時も私だけが「オーチェニ、ハラショー」とお褒めを頂いた。戦後、英語の素養が中学1年分しかなくて、旧制高校進学を断念した割には、英語との縁が未だに続いている。
50年以上も昔のことだが、独学で英語の勉強を続けていた20歳代後半の時、大蔵省から日米会話学院に派遣する試験に合格し、6か月間内仕事せずに朝から晩まで米会話の研修をしたことがある。爾来英語会話、特に発音に大変興味があり、職場も税関と総合商社で英語と関係が深かったから、その後も少しずつ勉強は続けていた。
三菱商事を辞め自由な時間が増えた後は、税関時代の英語好きの仲間と共に、今でも米人を囲んで2時間、英語オンリーでフリー・トーキングをやっている。
話題は自由で、過去1~2週間の出来事を各人報告するのが、スピーキングの良い練習になっている。先生は米軍海兵隊の元軍人で、現在も軍関係の高校の歴史教師だが、忙しい仕事が終わってからでも熱心に教えてくれる。
5・短歌
俳句は余りにも短くて好きになれないが、短歌は好きなので稚拙だけれども時々作る。
子供の頃家では百人一首が盛んで、全盛期は上の句から下の句を言う事は勿論、下から上の句を全部出す事が出来た。この経験が影響しているのかも知れない。
振り仰ぐ 大赤城峯の 下に立ち いざや背負わん 日出る国を
これは桐生の小学校(西の空には何時も赤城山が巍々として聳えていた。)の卒業時に、
全員和歌を作らされた時のものだが、実は私はすっかり忘れていた。
然し、卒業後40年以上経って同窓会があった時、NHKに進んだ級友の一人が隣に居て、「君があの時作った和歌を、今でも覚えている。」と言って、割り箸の袋に書いて教えて呉れたので思い出したものだ。私はどうして他人の作った歌を今まで覚えているのかと尋ねたら「気宇壮大で、子供心にも印象が強かったので・・・」と言っていた。
もう1つ、陸士入校直後に靖国神社へ参拝した後、全員が作らされた時の歌がある。
励まんや 試練の嵐 猛るとも 誓いし今日を 思い出しては
これも、陸士で靖国神社参拝の後に、作らされたまま忘れていたが、戦後数年経った
同期会の時、山口君が全員の歌が載っているガリ版刷りのコピーを持って来て、判明したものである。
2つとも意気盛んで、軍国調の強い歌だが、その時代の気分を反映していると思う。
友を弔う 那須野の寺に 春長けて 別れの歌は 嗚咽し終わる
宇農専時代の無二の親友・大島隆祐君は、海兵から入学した好青年だった。然し、彼の葬儀には参列出来なかったので、後日墓参した時の歌であるが、帰る前に陸軍将校団の別れの歌「遠別離」を歌ったが涙が止まらず、最後まで歌い切ることが出来なかった。
暮れなずむ 豊後水道 過ぎ行けば 征きて帰らぬ 人の偲ばる
クルーズ船が夕闇迫るこの海域を過ぎた時、かつて何千・何万の兵士が祖国に別れを告げて、ここを通って戦場に赴き、再び還らなかった事を想わずにはいられなかった。
和歌は作って置けば、後になって過去を振り返る時の貴重な資料になるので、これからも折に触れて作って行きたい。

