(1) 序章
昭和22年夏の終わり頃のことである。
当時私は宇都宮農専の学生だったが、夏休みで実家(足利市の郊外で渡良瀬川の堤防の側に在った)に帰って居た。その夏休みも終わったので「今日(9月15日)あたりは宇都宮の学生寮に戻ろうか」と考えていた。
然し、その頃キャスリーン台風が関東に接近中で4~5日前から激しい雨が降り続き、奥利根には合計600ミリ以上の降雨量があったと聞いていた。
その日も朝から強い雨が間断なく降り続いて居り、何となく川が気になるので、昼頃堤防の上まで行って川の様子を見て驚いた。
その辺は大きな遊水地帯で河川敷がD字状に膨らんで居て、普段は葦や草等が生い茂っており、一部家庭菜園や運動場にもなっている所であるが、一面の濁流になっていて、本流の付近はまるで、何百頭もの褐色の奔馬が河下を目指して、先を争って駆け下って行くようだった。川の水位は堤防の上面近く迄あり、私が立って居る堤防の地面は心なしかビリビリと振動して居るようだった。 暫くは濁流を見て居たが次第に恐ろしくなってきて家に戻った。
そして、その日は寮に帰るのは見合わせることとした。
(2)牛の救出
その頃父の仕事は大東亜戦争中に小川建設を辞めたあと、家具等の木工会社を経営して居たが戦後はそれも休眠会社にした。以前から長兄が病弱だったこともあって、農園を手伝わせれば健康になるのではないかと、父は足利の郊外に引っ越し、農地を買って作男を雇い入れ、麦、甘薯、野菜、梨、梅などを作る農園を始めた。また、自分では手慣れた建築で稼ぐ一方、さらに牛を一頭買い、人を使って牛車による運送をやらせ、運賃を稼ぐ等、戦後の不自由な時代を所謂多角経営をやって何とか生き抜こうとして居た。
偶々、その日父は家に居て、私が堤防から家に帰って2、3時間した頃「喜一、うちの梨畑の小屋に繋いである牛が水に浸かりそうで危ないから、家に連れて来よう。」と言い出した。
梨畑と言うのは、その日私が見に行った堤防のすぐ外側の下に在り、梨畑の側には池と建築の作業小屋兼住宅が在って、そこに父の仕事をする大工一家を住まわせて居た。
牛小屋は大工の作業小家の直ぐ近くに在るのだが、梨畑付近に行って見ると側にある池の周囲は一面に水が溢れ出して、池は何時もの3倍位の大きさになって居た。
そして、作業小屋で加工中の建築用の材木は殆ど池の方へ流れ出していた。
父は平素から人使いが荒く、「あれをやれ、これをやれ」と用を言い付けるのが常であったから、私は言われる前に自分から言って用事を済ませた方が気分が良いと思い、「あの材木を集めて縛って行こう」と言った。
然し、その時父は予想に反して「あれは良いから牛を連れて早く帰ろう」と言う。珍しい事もあるものだと思いながら帰途についた。家までは約3~4百メートル位だが、既に夕方で薄暗くなり路上には水が溢れて浅い川を歩くような感じだった。
父は牛の前の綱を取り、私は別の綱で後ろから引っ張るようにして、びしゃびしゃの道を家へ急いだ。
(3)堤防の決壊
その頃になると、余りの大雨に危険を感じたのか、浅い川のような路上には既に避難を始めた家族が何組か高台の寺を目指して急いでいた。
家まで50メートル位迄の所に来たとき、背後で「ダダーン」と言う鈍い音がした後、路上の水の流れが急に早くなり少しずつ水嵩を増して行く。 この時私は堤防の決壊をはっきりと意識した。 それ迄足元を濡らすのは生暖かい水だったが、急に冷たい水となり踝から臑、膝と上がって来る。そして流れがどんどん強くなり、家はもう目の前なのに腰まである急流に身動きが取れなくなって来た。
その時私の横を歩いていた母子連れも動けなくなり、「助けて!」と言って右腕にしがみついて来た。父と私は牛と母子連れと両方を引き連れて、やっとのことで家の門の内まで辿り着いた。
先ず母子連れを離れの2階に上がらせ、牛は納屋の軒下に繋いで、急いで母屋に入ろうと戸を開けようとしたが、外からの水圧で戸が内側に押されて一向に開かない。
父と二人掛りでやっとこじ開け、濁流と一緒に転がり込むように家の中に入った。
土間では胸まで水が来ていたが、目にした光景は目茶苦茶だった。下駄は浮く、箱は浮く、畳も倒れた仏壇を乗せたまま浮いている。
家には母、次兄、妹二人とお手伝いの娘が居たが、我々は皆突然の変事に気が動転して右往左往していた。しかし、母は流石に落ち着いて「米を、食料を2階へ!」と叫んで居た。私は無神論者だけれども、あたふたと2階へ階段を上る時は、思わず神仏に水嵩がこれ以上あがらないよう真剣に念じていた。
(4)家の中を泳ぐ
この家は60坪位の機織り工場だったのを父が住宅用に改築したもので、2階と言っても屋根裏部屋で、物置として使っているスペースだった。
父以下全員が其処に避難した時、水嵩は一階押し入れの上段の中ほど迄来ていた。
家は揺れながらミリミリときしみ、外はごうごうと濁流の音、 全員着のみ着のままのびしょ濡れで、突然の水害の恐ろしさに打ちひしがれていた。
だが、その時家の中では大変な事が起きていた。
当時は停電が頻発していて、その日も堤防が切れる前から停電となり、今のようにロウソク、懐中電灯など十分に無い時代だったから、暗くなった時、長火鉢で割り箸や経木などの小さい木片を燃やして明かりを採って居た。 ところが、濁流が押し入って畳が長火鉢と一緒に浮いて、天井の直ぐ下で明かり採り用の木がパチパチと燃えているので今にも乾いた天井に火が燃え移りそうな勢いなのである。
母が言った。「喜一、お前行ってあれを消して来ておくれ!」言われる迄もなく、私も行くつもりだったので直ぐさま階段を2、3段降りて、何と家の中を泳ぎ出したのである。 すると、それ迄気付かなかったが、瓦落多の浮いている家の中の泥水は、プーンとトイレの匂いがするのである。考えて見れば至極当然の事である。当時は水洗便所など田舎には普及していなかったから、外から来た水は便壷に入り其のまま家中に溢れ出して居る訳である。然し、そんなことに怯んでは居る暇は無い。 平泳ぎで土間の部分を過ぎ、階段とは反対側の部屋で浮いている長火鉢に近づいて、畳ごと水の中へ引っ繰り返した。 一瞬のうちに真っ暗になり、部屋の中の水が波立った為か下流の方向のガラス窓がバリーンと外側へ破れ、同時に家の中の水と浮いている物がスーと流れ出て行った。 私も危うく一緒に出そうになったが、直ぐ近くの柱に掴まり、壁伝いに階段迄戻り二階へ上がった。
真っ暗な二階では会話も殆ど無く、家は相変わらずギシギシと揺れ、外に聞こえるのは濁流の音と家ごと流されて行く人達の「助けて呉れー」と言う悲痛な叫び声である。
助けたくとも自分達もどうにも出来ない状態なのである。
皆押し黙って居るが、考えている事はただ一つ、それは水嵩が何処まで上がって来るかと言う事である。水が軒迄来たら家は流されると言う話を聞いているからである。
この時、私は若し水が二階まで来たら「どうやって皆を屋根の上に脱出させるか」を考えて居た。当然、家は流れ出しているだろうし、ベランダなどは無く、脱出口となるのは高い明かり取りの窓だけである。ロープ、梯子或いは屋根を破壊する為のバール等の道具は一つも無く、今此処に頼れる人は誰も居なかった。
心配しても名案は浮かばないので、頻繁に階段に行き水嵩をチェックした。
幸いなことに水は押し入れの上段の中程から上には上がって来る事はなかったので、皆も少しは愁眉を開いた。
(5)凄まじい水害の爪跡
まんじりともしない一夜が明けて見ると、辺りの光景は実に惨憺たるものだった。
一番心配して居た水はすっかり引いていたが、床上30センチ位まで砂とヘドロがびっしり詰まって居り、その上には上流から流れて来た木の根、リヤカー、戸棚、臼、下駄箱、等々 が家の中に散乱し、足の踏み場も無い状態で、逆に家の道具類は殆ど流出していた。 また、 離れの二階の母子達は無事だったが、繋いで置いた牛は綱が千切れ姿が見えなくなっていた。(後日下流で発見され連れ戻した。)
そして一番驚いたのは、昨日まで毎朝歯を磨く時、何時も北側の窓から見えていた隣の小さな家が影も形も無くなっていたことである。土台も無くなり、有るのは低い砂の盛り上がりだけだった。(一家6人とも行方不明。)堤防の決壊口は遊水地帯のD字状の膨らみの、やや右下部に相当する部分だった。
渡瀬川は有数の天井川で、河川敷は市街地より数メートル位高いと思われるので、翌日も決壊口からは滝のように水が流れ落ちて、今まで市街地だった所の家を根こそぎ押し流した跡に、幅20メートル程の新川が出来ていた。その川は例の梨畑とわが家との中間地点(家から200メートル位の距離)の低地をなぞる様にして、東南の関東平野の方へと流れていた。
今回の水害で、決壊口付近では一挙に300人以上の犠牲者が出た由であったが、その殆どは行方不明か、土砂に埋まった侭で直ぐには発見されなかった。
(6)ナロー・エスケイプ
私たちが牛を連れて帰ったルートは、梨畑から堤防に沿って北へ5~60メートル歩き丁度決壊口付近で東の方へ直角に右折し、堤防を背にして我が家まで一本道を来たのであるから、私達は決壊の直前に決壊箇所を横切ったことになる。
堤防が決壊した時、路上で私達の前を高台へと急いで居た数組の家族が見えたが、数日後、それらの方々は何れもその道の土砂の下から遺体で発見されたと言う。
後で分かったことであるが、父は海に面した小田原の生まれなのに金槌だったそうである。その為に、水には自信がなく梨畑での慎重な対応となったのであろう。
私は当時血気盛んな19歳で、幼年学校では水泳の訓練を十分に受けて居たから、水泳には自信があり水を恐れる事はあまり無かった。また、水害時には水泳の能力など何の役にも立たない事を、其の時は十分理解していなかったから、若し梨畑の現場での父の抑制的な一言が無かったならば、私達は確実に遭難していたと思う。
