陸軍幼年学校の教育

 陸軍幼年学校は明治時代に創設されたが、開校以来多くの名将を輩出して、

明治・大正・昭和と、勃興期の日本陸軍の中枢として活躍した。

幼年学校は全国に6校が在り、時代によって幾つかの変遷は在ったが、北から仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本で、多くは師団司令部のある都市の城内に在った。然し、私等が入学する頃は、都会の俗世界と隔絶させるため、各都市の郊外に配置されていた。

入試は中学1年または、2年修了の生徒を対象とし、厳しい体格検査を経て、学科試験があるが、有名な超難関校で、一説には「東大より入学が難しい」と、言われ、老人会でも陸幼に居たと分かると、同じ事を言われた。合格者数は太平洋戦争勃発の昭和16年迄は、一校150名だから、全国では900名であった。

東大の入学者数は、文1・理3は数百名だから真の難関だが、全校なら1学年は3千名以上に達するから、東大生全体との比較なら、頷ける話である。

また、幼年学校の新入生の、現役と一浪者(多浪は居ない)との比較は、我が訓育班(クラス)では、現役の方が少なかった。この点も入試の困難性を示す事実だと思うが、東大生の場合と比較したら面白いと思っているので、東大生は

現役の方が多いと思うが、一度、水田正和氏に聞いてみたい。

3年間の学科と術科教育を経て、幼年学校を卒業すれば、陸軍士官学校には無試験で進めた。その為、陸軍の高級将校の子弟が多く受験し、また在籍していた。

一校の150名は3組(訓育班と称する)に分け、3年間クラス替え無しの、持ち上がりで、完全な全寮生活であった。従って、級友は単なる同級生では無く、

多感な10代の3年間を、同じ釜の飯を食って育った、正に兄弟であった。

ここが、一般の学校の級友とは圧倒的に異なる点である 。

教育システムは、陸軍大佐の校長の下に、中佐の訓育部長が居り、各訓育班には少佐(29歳から30歳)が1名宛て居り、50名の班員の訓育を専担したが、

全員が全軍の中でも少数派の幼年学校卒業者で、軍隊生活における起居動作、軍事・武道・精神面等の訓育に当たった。

補助者としては、陸軍戸山学校(全陸軍から選ばれた最優秀な下士官に、軍事・武道・体操等の専門教育を行う学校)を、優秀な成績で卒業した下士官が、2名宛て配置されていた。尾

更に、3年生の中から、学術共に優秀で真面目な生徒を複数名、指導生徒(後に、模範生徒)に任命し、1年生、2年生の宿舎に寝起きさせ、学科以外の起居動作・軍歌演習等の指導をさせ、授業の時は教室で同期の仲間と合流した。

この制度は、特に新入学生に対しては、特殊な軍隊的校内生活に習熟させる為には、絶対に必要であった。我々も入校時は、全て此の先輩(模範生徒)に教えられたもので、何でも知っている神様のような存在として目に写って居た。

私も3学年の時、中期の模範生徒として正田君(旧姓中末)と共に、2期後輩の48期第5訓育班に派遣された。自習室や寝室で、60人の1年生の中に2人だけ上級生の私等が居る訳である。

この模範生徒は仇名で「護民」と呼ばれていた。その理由は一般の3年生は良く1年生に難癖を付けて制裁を加えたがるが、これから後輩を護るのが1つの仕事であるからだ。 従って、通常は成績優秀、生活態度が真面目で、且つ腕力のある者が指名されるのだが、どう言う訳か正田君も私も細身だった。

後輩の指導は、遣り甲斐のある仕事だったが、苦しいこともあった。

 

この頃食堂の食事が無くなる事件が頻発した。誰かが先に食べてしまうらしい。

そのうち、どうも我が第五訓育班のT君が犯人らしいとの目撃証言が出てきた。

正田君と私は、後輩の情操教育の責任まで負わされていなかったが、消灯後T君を呼び出して問い詰めた。返事を渋る彼に1発かますと(私の3年半の軍隊生活中で、人を殴ったのはこの時だけであるが)、彼は犯行を自白した。

翌日担任の生徒監に全貌を報告し、処置を委ねたところ、審議の結果は厳しく、退校処分だった。

将校生徒を教育する幼年学校の校則は「品性高潔、学術優秀ならざるべからず。」と謳っているので、止むを得ない処置だったかと思う。

 

学科については、普通の中学と同じだが、午前中の全時間を当て、教師は陸軍教授と言う名称で旧制高校教授と同等の資質を持つ、極めて優秀な教授陣だった。

訓育班員50名は2分され、25名で学班を構成し、此の単位で授業を受けた。

私は大阪幼年学校の第3訓育班の第6学班に属し、外国語は露語専攻だったが、

これが終戦後、進学で最大の障害となり、旧制高校への道を諦めた遠因だった。

陸軍の仮想敵はソ連だったから、露語教育は当然の選択で、3年生になると白系ロシヤ人が来て、露語会話の授業も有った。25名の学班員は各中学で1,2番を争った、優秀者が多かったが、私は露語会話だけは、常に「オーチェニハラショー」で、他の誰にも負けなかった。3訓の他の半分の第5学班は、フランス語専攻だった。

学班の25名と言う数字は教育上意味の有る数字らしく、教師の目が行き届き、生徒の数として理想的らしい。

その事は、私が大蔵省から日本一の「日米会話学院」に派遣された時も、昭和27年だから戦後間も無く、学院自体の建物は焼けビル内に在ったが、1教室の生徒数は、やはり25名で構成されていた。

午後は術科と称して、柔道・剣道・体操・軍事教練が課された。私は体格検査を漸くパスした痩せ型で、最初は身長も低かったので、柔道・剣道では負けが

多く、段・級も上達しないので辛かった。然し、自分の体重だけをコントロールすれば良い鉄棒は得意で、3年生の時には、班で3人しか居ない大車輪が出来るメンバーだった。

入浴後に夕食を取り、自習時間は7時から2時間だが、私は昼の術科で体力を

使い果たし、疲れ切って居眠りすることが多かった。

消灯は9時だったが、各動作の区切りは、全部ラッパで告げられるのが、軍隊生活の証拠だった。

諸外国の例も同様だが、幼年学校は皇室(王室・宮廷)から殊遇を受けていた。

夏休みで帰省する時は、皇室から菊の御紋章入りの和菓子を賜ったので、父親は感激して、庭のお稲荷さんに捧げて、暫くは食べなかった。

更に、貴族的な雰囲気を保つためか、校外に外出の時は夏でも、生徒は白手袋の着用が義務付けられていた。

訓育班制度は、3年生から1年生まで縦の3訓だけの繋がりは出来るが、他の1訓・2訓との繋がりや、交流が全く出来ないので、学校幹部はその弊害を無くす為に、全校生徒掻き混ぜて、新たに5個の運動班を編成して、秋には盛大に班対抗の運動会を開催した。当日は近くの柏原航空隊から、先輩の将校が隼に乗って応援に来て、上空を乱舞した。

私は第五運動班に属し、組体操で人の櫓を作る速さを競う競技の一員だった。大会前日は、各班とも消灯後も柔道場で練習したいので、週番士官に願い出て、12時終了を厳守するとの条件付きで特別に許可された。然し、第5班だけは、私を含めて僅かに数分間オーバーした。

週番士官と言うのは、1校に9名居る陸軍少佐の生徒監が、順番に交代で一週間、校内に泊まり込み、責任者として勤務する制度であるが、この時の週番士官は、丁度我が3訓の鶴川少佐だった。

翌日の点呼を私は1年生と共に、別の生徒舎の前で受け、学科を受けるために、教室で同期生に合流すると、仲間が「尾山、大変だぞ。あの鶴川親父(生徒監の愛称)」が、点呼で『昨夜12時を過ぎて練習した者は、一歩前へ!』と、真っ赤になって怒り、力一に杯殴った。全員が横倒しになり、教材が鞄から地面に飛び出した。」と言う。

何しろ此の6尺豊かな薩摩隼人の生徒監は、綽名が恐竜の「ダイノソアー」で、陸士本科の卒業式の天覧試合では、剣道で優勝した戦車兵の猛者だった。

私は悩んだ。別の点呼場で助かった格好だが、黙っている訳には行かない。

将校生徒は「品性高潔で、恥を重んずべし。」と教育されて居るからだ。

午後、私は意を決して生徒監室に行き、鶴川親父に「私も昨夜は遅れました!」と申告した。親父は机で事務をしていたが、じろりと目を挙げ、「・・・制裁は、貴様の良心に任せる。帰れ!」で、助かった次第。

 

幼年学校の教育で、最後の頃に最も不審に思ったのは、戦況が不利になって、

南方戦線では夜間の斬り込み作戦が主流となり、幼年学校でも夜間に暗い部屋で、数十分間目を開けて居ると、徐々に暗闇に慣れて、物が見えるようになる訓練を受けた時は、暗澹たる気持ちになった。「レーダーや聴音機が発達した現代の戦争で、日本軍はこの様な戦い方しか出来ないのか!」と言う嘆きだった。

 

昭和20年3月17日が、幼年学校の卒業式で、生徒監・教官・後輩に見送られ、3年間切磋琢磨した校門を後にしたが、大阪駅に着いたら、前夜の空襲で周囲は未だ燻っていた。

国鉄を乗り継いで、古河の自宅に帰省して、暫し休息したが、4月1日には朝霞の陸軍予科士官学校に、第61期生として入校した。

自宅を出る前に戦況の悪化を見て、自分は未だ将校生徒に身分で、兵士ではないが、陸士に入校すれば、優秀な兵士でもあるから、前線に配置されるかも解らず、生還は期し難いから、国の為に此の戦で命を捨てる覚悟の遺書を書いたが、親に手渡すのは恥ずかしいので、自分の本立てに挟んで家を出た。

然し、6か月後には敗戦で陸士予科から復員し、真っ先に遺書を探したが、親が処分したのか、見つからなかった。

そして、其処から今日までの、長い戦後が始まったのである。    了

 



尾山喜一 拝



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