1・税関職員の権威(坂元安雄 氏)
私が横浜税関の海務課巡察だった或る当直の夜、乗船官吏(外航船が出港するまで、本船に泊り込みで乗船勤務させる税関職員)の彼が、「命の危険を感じたので降りてきました。」と本部に帰ってきた。
訳を聞くと、「沖懸りのギリシャ船に、乗船勤務していましたが、船長が市内から例の女性を伴って帰船して来た。女性が陸地と本船との交通許可を取っていないので、乗船を阻もうとしたら、酔っている熊のような大男の船長が暴れ出し、身の危険を感じたので下船しました」とのこと。
私は彼をその侭本部に泊まらせ、翌朝、税関の権威を守り、不当な侮辱を受けた坂本君の無念を晴らす為に、補助巡察(大越氏)を伴って件のギリシャ船へ向かった。
船長に会って、昨夜の税関職員に対する粗暴且つ無礼な行為を厳しく詰問し、「謝罪しなければ出港を停止する」と通告した。熊船長は大いに驚いて平謝りに謝罪した。
私は本部に帰って坂元君に、「仇は討って来たぞ!」と、事の顛末を伝えた。
互いに主義主張は異なったが、彼との親しい付合いは退官後も続いて、夫人を早く亡くした彼は、時々我が家に遊びに来ては、家内の手料理を美味しいと食べて行った。
また或る時、私が「明年厳島で能を舞う予定」と言ったら、直ぐに「見に行きます」と言うので「遠いから無理しないで・・」と言ったが、彼は着々と準備して、言葉を違えず小雨だったにも拘わらず、観に来てくれた。その彼は不幸にも、故郷の鹿児島での列車事故により亡くなられた。
2・或る外国船員(ミス・シップ)
同じく海務課巡察の時、監視艇に乗ってノース・ピアに行き、そこで上陸しようとした際、岸壁で1人の外人船員が大声で泣き喚いている。訳を聞くと「自分の船がたった今出てしまった!」と言うのだ。振り返ると1隻の貨物船が船尾をこちらに見せながら、港外に向けてゆっくりと前進していた。
艇長の私は咄嗟の判断でその船員を乗せ、貨物船の追跡を命じた。然し、行き脚の着いた本船は遅いようで可なり速い。税関監視艇は港内で最も速い艇であるが、全速力でも中々追いつかない。警笛を鳴らし、艇の船員に身振り手振りで本船に停止を要請させたが思うように行かない。港外に出ると艇はびりびりと振動し始めた。駄目かと諦めかかった時、本船がゆっくりとスピードを落とし始めた。やがて完全に停止し、縄梯子が降りた。船員は礼を述べドル紙幣を何枚か置いて梯子を昇って行った。本船側は上から盛んに証拠の写真を撮っていた。ドル札の処分は監視艇詰所の船員等に任せ、我々は本部に帰投した。良い事をしたのか否か解らなかったが、「あの船員は、帰国後恐らく解雇されるかも知れないな」と皆で噂し合った。
3・津久井茂充 氏
税関陸務課の陸務係長の時、部下だった津久井君が研修に参加する事になったので、最後にある試験を受けるコツを伝授した。彼は見事にトップの成績を収めたが、これに対して当局は所属組合の故をもって、特別昇給をさせないと言って来た。私は不満だった。このまま推移すれば、彼は自分の成績が悪かったから、特昇をしないと思うだろう。課長に、「彼に組合を抜けるように言いましょうか?」と言うと、「危険だから、(上司が部下に組合の脱退を言うのは不当労働行為で違法だった)止めて置け。」と言われたが、私は納得しなかった。 そこで、危険を顧みず、独断で実行しようと決心した。私が直接電話で呼び出すと、周囲の者に感付かれるので家内に電話を掛けさせ、レストランに呼び出した。私が話を切り出すと、彼は直ぐに察して、「研修特昇の関係ですか?」と聞いた。私が頷くと、彼は「組合を抜けてまで、特昇しようとは思いません!」と言った。私は一瞬真青になった。然し、其処からは説得である。「研修で頑張って、君が勝ち取った成果ではないか。このままで行くと、永久に君の名誉も、昇給の権利も失われる。国籍だって離脱出来るのだ。組合などは絶対的な存在では無い。良く考えて返事をしてくれ。」と言って別れた。数日後彼から電話があり、組合を抜けた事を告げられた時は、本当に安堵した。課長からは、「今度の件で
は、随分強気で頑張ったねえ!」と言われた。
後年私が本省に異動した時、先に行っていた彼が中心になって、関税局の「横浜会」を創設してくれたし、私が函館税関に赴任した時は、彼は真っ先に出張して来て、
我が家に一泊して行った。
彼(後の長崎税関長)には、ガットに関する浩瀚な著書があり、税関部内のみならず、学会内でガットの権威である事は、誰もが認めるところである。
4・官当局の権威(西門10直事件)
陸務係長の時、部下の伊藤巡察が監所勤務者の指導に行ったが、立哨すべきH君が立っていないので、立哨するよう注意すると、「監所の事は我々の方がよく知っている。一々本部(巡察)の指示は受けない。」と言って立たなかった。更に「処分するなら、してくれ!」とまで言った。伊藤巡察は真っ赤になって憤慨しながら、私にその事実を報告した。私は何としても官当局の権威と、伊藤巡察のメンツを護りたかったので、直ちに人事課長に直訴し、処分出来ないかと聞くと「出来ない」と言われた。
私は仕方なく、H君を次の泊り勤務から、彼等の嫌がる本部前の西門監所に10回連続の勤務を命じた。(通常は条件の良い監所、悪い監所を交互に配置していた。)
巡察達は、「組合新聞で、きっと叩かれますよ」と懸念したが、私は敢えて断行した。翌日の組合新聞には予想したように、デカデカと書かれた。「陸務係長、不当な報復的監所配置を行う!」と。
やがて、秘書係から陸務課長に「税関長がお呼びです。陸務係長も同行するように。」との電話が入った。周りの者は皆固唾を呑んだ。何しろ時のM税関長は、総務部の課長にも、書類を投げつけて怒鳴り付けるような激しい方だったからである。
税関長室での質問は専ら私に向けられた。連続10回西門勤務に就けた理由を聞かれので、それまでの出来事を全部話し、「人事課では処分出来ないと言うので、私の出来る範囲で制裁を加えたのです。」と答えた。税関長は満足そうに頷いて「ところで、何故、彼等は西門監所を嫌がるのか?」と聞かれた。私は「本部前の監所で、全くサボれないからです。」と答えると、税関長は笑って「そうか、分かった。」と言われ、報告は終わった。
部屋へ戻ると巡察等は「どうでしたか?」と、皆心配しながら待って居てくれたが、その後特別な変化は無かった。
然し、この事件は以後の私の人事に大きな影響を及ぼした事が、後に解るのである。
この出来事の直後、関税局・総務課の補佐だった松尾直良氏が、高等科研修で成績がトップだった私を本省要員に貰いに来て、ナンバー2の総務部長のOKは貰って居たが、税関長の所で言下に峻拒された。然し、この事が、松尾さんが私を強く意識された最初であり、その後松尾さんによって3度も大抜擢される遠因となったのである。
5・税関人事の信頼性
私は人事係長から人事課長補佐に、一階級(出先の課長)飛ばした形で昇任した。
野地課長と三輪補佐が同時に転出したので、止むを得ない措置だったかと推測するが、他の職員に人事課員の役得視されるのを嫌って、1年後の異動期に自ら強く希望して、当時の慣例に従って出先(川崎)の課長に出して貰った。
この時の異動会議の別室で控えていた私に、総務部長が一人出て来て、「本関の人事課補佐から、出先の課長で良いのか?」と、心配してくれたが、私は真の理由は言わず唯「良いのです」とのみ答え、私の人事は実現した。その後、私の兄貴分とも言うべき石原氏が後任人事課長に来て、「俺が来るのを知りながら、(真相は、全く知り得なかったが・・)人事課から逃げ出した!」と、不当な怒りを買い、以後明らかに干された。その証拠には、川崎支署の次は山下の輸出統括に発令され、所謂、左遷ルートと言われる人工衛星化したのである。
然し、1年後に松尾総務部長の着任により、私は時ならぬ12月の異動で山下の統括から輸入部統括官となり、その僅か半年後には厚生課長(3等級)に、100人を超える異例の大抜擢を受けて救出された。それ以降、私は総務部の3課長(厚生・人事・総務)を連続勤務する事となるが、これは全国税関でも例のないケースだった。
6・独身寮の管理(上原・寮管理人)
厚生課にとって寮管理は極めて重要な仕事である。地方から来た若年職員は殆どが寮に入るが、将来職場の大切な戦力になる彼等を順調に育てるには、適正な寮管理が欠かせない。そこで独身寮には所帯持ちで、面倒見の良い人を選んで、一家住み込みで寮管理人の仕事をして貰った。
私が厚生課長の時、紅葉坂寮の管理人はUさんで真面目に職務を遂行していたが、ある夜遅く2人の過激な組合員(此処の寮生ではない)が酒に酔って無断で寮内に入ろうとした。これを咎めたUさんに彼等は暴力を振るった。夜中12時頃、Uさんの奥さんから私宅に電話があり、「今主人が今暴力を受けている!」と泣きながら訴えて来た。私は応急措置として直ぐに隣に住む副管理人に来て貰い止めさせるよう伝えた。事件はその後比較的早く納まったが、U管理人夫婦と私は、2人の乱暴者を許せなかった。陸務係長の時の経験で、人事課は処分に対して及び腰で頼りにならない事を知っていたから、私は独力でもこの暴漢達を懲らしめ、謝罪をさせようと決心した。
然し、2人のうちの若い方のTは、以前保税派出所で20歳以上も年上の上司と2人で勤務している時、上司に対し「お茶を入れろ!」と言うほどの驕慢な男である。
2人の所へ懲らしめに行くと言う私に、課の部下達は「とんでもない奴等だから、止めた方が無難です。」と言った。勿論止める気など無いが、連中は悪賢くてずるい奴等だから、怒鳴り込んでも、きっととぼけるだろうと読んで、先ず目撃者を探した。
幸い2人居る事が分かった。十分に準備を整えて先ずTの所へ行き、詰問すると案の定とぼけた。 「何を言うか、見ていた者が居るぞ!」と言うと、「誰だ?」と聞くから名前を告げた。彼は詰まって、以後の返答はしどろもどろだった。私は「U氏に謝罪しなければ、君を今居る宿舎から追放する!」と通告して帰った。
私が帰った後、Tは「あの課長は切れるな」と周りの者に漏らしたと言うが、こちらが腹を決め、十分準備して掛かれば、跳ね返りのツッパリなど問題ではない。
そして、もう1人の柔道家の杉浦の勤務場所にも行き、同じように詰問し非難して、「U氏に速やかに謝罪せよ!」通告して引き揚げた。
数日後、2人はU君のところへ謝りに行った。さらに組合新聞でも謝罪とまでは行かないが、「この事件は不適切であった.」とのニューアンスを伝える記事が載った。
これ等の事は、何時も官側には徹底的に反対し、謝罪など絶対にしない過激派組合、及びその組合員の行動としては、誠に稀有の事であった。
U君と夫人は私の処置を大層喜んで、後日私を自宅に招いて感謝の気持ちを述べると共に、奥さんの手料理でご馳走してくれた。
7・輸入部の意見
巨大な輸入部は、課長が40人以上居る大所帯で、二人の次長が居た。然し、この時部長ともう一人の次長は共に病弱で一人は入院中、他は入退院を繰り返していた。
上級幹部は、次長の私1人だけになり、テンテコ舞いの毎日だった。
やがて本省で全国輸入部長会議が開かれる事となった。これには部長・両次長の
3人で出席するのだが、仕方なく私1人で出るつもりで、もう一人の次長の分担事務(事後調査部門)も急遽勉強して、会議の答申要領を漸く纏めた時、本省から「兼務の輸入部長である総務部長と共に出席せよ」との指示が来た。
然し、兼務のN総務部長は私達が纏めた輸入部意見に、どうしても賛成しなかった。
総務部長は人事権を持つ最も怖い存在だが、私としては、折角皆で纏めた輸入部意見を簡単に変える気にはなれず、総務部長と言えども従う訳には行かないと思った。
本省の会議場に着席しても、2人はまだ盛んに議論していた。会議の司会者は、通常東京、横浜、神戸、大阪と順に指名して発言を促すのだが、この日は横浜の2人が依然として議論しているのを見て、東京の次に横浜を飛ばして、大阪、神戸と進んでから「横浜さん、そろそろ良いでしょうか?」と水を向けて来た。私は仕方無く、総務部長に断って輸入部意見を開陳した。
するとN総務部長は「今のが横浜・輸入部の意見だが、私の考えは違う。」と自説を述べられた。会議のメンバーは皆が驚いた。しかし両論は必然のテーゼとアンチテーゼだったから、会議は大いに盛り上がり、最後の本省側の講評では、叱られる代わりに「却って良かった!」とのご意見を頂いたのでホッとした。
余談だが、その直後の人事異動でN総務部長は本省輸入課長に、私はその隣の考査管理官(課長待遇の労務担ポスト)に同時に異動した。そして二人は本省で良く一緒に焼酎を飲んだ。
二人には、その後北海道での同時勤務(北海道財務局長と函館税関長)の奇縁もある。
N財務局長が函館に視察に来られる前、函館の事務所長に対して「税関長の居る時でなければ、行かないよ。」と言われ、事務所長は慌てて私の所に二人の関係を聞きに来た一幕もあった。
8・内部情報(辣腕記者退治)
横浜税関監視部長に着任早々、前部長と共に庁内の挨拶廻りで廊下を歩いていると、一人の記者が近付いて来て、「部長、あれは書かせて貰いますよ」と前任者に向かって言う。部屋に戻り「何の事か?」と聞くと、「実は、与党大物政治家・金丸信の息子が絡む、密輸事件の大きいのを嗅ぎ付けられ、書かれそうで困っている。」との事。
1週間後、件の記者が「着任ご挨拶」と称してやって来て、最後に例の事件の「引継ぎはあったか?」と聞く。勿論「まだ何も聞いて居ない。」と答えると、彼は帰った。
それから2~3日後、東京新聞夕刊の三面に5段抜きの記事が躍った。
大要、「与党大物政治家Kの長男が、台湾から輸入豚肉の脱税で2億円の関税を不正に免れ、横浜税関に摘発され通告処分を受けている。」で、記事の内容は極めて正確であった。そして、記事の信憑性を高める為か、最後に尾山監視部長談として「・・・今後、この種違反事件は厳しく取り締まって行く方針である。」と載っている。
私は愕然とし、そして猛烈に腹が立った。 全く喋って無い事が、私の名前入りで
「談話」として載っているではないか!
その夜は、ニューグランド・ホテルで倉庫協会のパーティーがあり、税関長と共に出席して居ると、税関から緊急電話があり、新聞記者が大勢来て「部長に会わせろ!」と言っているので、至急帰って欲しいとの事。部屋に帰ると15~6人の記者が座り込んでいた。例の記者は勿論居なかったが、記者等の団長のような男が私の横に座り、「貴方が喋ったのか?何で東京だけに漏らした!」と詰め寄ってきた。私は「何も話していない」と言うが、誰も信用せず、他の記者も騒いで険悪な感じになった。
この時私は「組合の連中と同じだな」と思った。騒ぐけれど手を挙げるわけではない。「落着け、落着け!」と自分に言い聞かせた。彼等はデスクから尻を叩かれ、「抜かれたのなら、追加記事を取って来い。」と言われているのだ。その証拠に、「あんたが喋っていなくても部下が漏らした責任がある。何か新しい話しをしろ。」等と言った。
押し問答をしているうちに、あの記事の中で私が発言したとされている内容が、何処かで聞いた記憶がある事に私は気付いた。「・・そうだ、あれだ!」先週、海事記者クラブの記者を集めた定例会見で、半年間の密輸摘発状況を私から発表したが、その時文書も交付した。その書類の最末尾の文言を彼は引用して居たのだ!
記者達が一向に引く様子も無いので「私が喋ってない証拠が有る。」と言うと「何だ、それは?」と聞く。 例の文書の控えを持って来させ、「貴方達も見覚えがあるでしょう。彼はこれを書いたのだ。」と示した。これを見た記者等は「これはひどい!
(東京の記者の取材方法に対しての言)」と言って、潮が退くように一斉に引き上げて行った。そして翌日の各紙には、後追いの記事が一つも出なかったのである。
これは後で知った事だが、マスコミ業界では、後追いの記事が無いのは「特種」にならないのだそうだ。1週間位して東京の記者は謝罪に来たが、勿論私は許さなかった。「君はあの記事で社内の評価を上げたかも知れない。だが、言ってない事を言ったとして書かれた者の立場はどうなるのか? 私は絶対に許さないぞ!」それから、私の復讐劇は始まった。
周囲の者から、「あの宮崎記者は『税関は特種が取れる!』と言って、本社の転勤要請を拒否して、7年間も税関海事記者クラブに居座って居る、怖い記者だ。」と聞いたが、「横浜税関も歴代の監視部幹部も、随分と舐められたものだな。」と思った。
私は、税関内部の機密保持を守り、不当な記者の取材を無くすためにも、絶対に仇を討って、彼を記者クラブから追放しようと決心した。
記事の正確さから、私は内部にインフォーマーが居ると睨んだ。最初私は犯人探しをやろうと思ったが、それは徒労に終わるだろうと気付いて止めた。犯人は恐らく密輸の摘発をする審理課のベテランだろうと睨んで、課長会議で直ちに指令を出した。
「以後、記者と1対1で酒を飲んではならない。」
それから10日位して例の記者が飛び込んできた。「部長、評判悪いよ!『記者と酒飲むな。』と言ったでしょう。」これを聞いた私は腹の中で喜び、「効いたな! 然し、私に言いに来るとは、この記者も余り悧巧ではないな。」とも思った。
毎年暮れになると、海事クラブの記者と税関幹部の忘年会が、中華街で開かれた。
カラオケが始まって私の番が来たので、「旅姿三人男」を歌い出すと、例の記者は頼みもしないのに、鉢巻をして側で下手な踊りを始め、耳元で「部長、これで勘弁してくれる?」と囁いた。「ふざけるな!」が私の返事だった。
そして、待ちに待った次の異動期には、不安がる部下の意見を全て無視して、審理課のベテランを悉く配置換で外部に転出させた。
それ後は、宮崎記者に特種を抜かれる事もなく推移して、税関記念日のパーティーの席で、彼は「部長にあのペーパーで特種を潰されたし、最近は情報が取れなくなった。」と私に呟いて、漸く記者クラブから転出して行ったのである。
9・益子調査官(いじめ事件)
監視部には図書調査部門があって、輸入される図書・絵画等が公安風俗を害する恐れがある(ポルノ)か、否か調査して、輸入を差し止めるかどうか審査している。
そこにT統括調査官と部下のM調査官が二人だけで、個室で勤務していたが、次長等からその統括官が部下を滅茶苦茶に苛めて、部下がノイローゼになりそうだと言う話が私の耳に入って来た。私は「直ぐに統括を呼んで注意する!」と言ったら、次長等は揃って「そんなことをしたら、益々しっぺ返しで苛められてしまうから駄目です!」と反対する。その後も色々な所から、部下のM調査官が困っているとの情報がしきりに入って来たが、誰も何も手を打たないので、私は非常に面白くなかった。
暫くして、監視部の課長・統括官以上のメンバーで一泊旅行に行くことになった。
宴会で座も乱れ、次長や管理課長も皆酔っ払っている時、件の統括官は変わり者だから誰も近付かず1人ポツンとしている。私は彼の側に行って、小声で「私は人事の仕事を長くやって来たが、部下からの評判が悪い者は重く用いない主義だ。何故なら、人は下の者に本当の姿を見せるものだからね。」とだけ言って直ぐに側を離れた。
数日後、彼の部下のM調査官が偶々決裁書類持って来た。私は「最近、統括官はどうかね?」と聞いてみた。彼は「いやー、旅行に行くと気分が良くなるのですかね、とても優しくなりまして助かっています」と答えた。私はこれで良かった、やっぱり誰かが言わなければ駄目なのだと思った。
このMさんこそ、今も続いている英会話クラスの親しい仲間の益子氏である。
T統括官はその後東京税関に転属になったが、その後も彼には酷い後日談がある。
私が退官して三菱商事に勤務して居た時、糖蜜を新潟の酒造会社に納めている営業部から相談があった。内容は「その酒造会社に東京税関の調査官が来て、とても無理な要求をされた。『なぜ社長が駅に迎えに来ないのか?』とか『糖蜜のタンクを別にもう1本作らなければ駄目だ!』などで、改善の誓約書を取られて社長が困っている。」とのこと。私は「若しかして、その統括官の名前はTではないか?」と聞くと、そうだと言う。Tの言う糖蜜のタンクを新たに作る必要は通達上も何処にも無いのである。
私は腹が立って、「直ぐに文句を言おう!」と言うと、此処でも「やめて下さい。
余計に仇をされますから。」という始末。そこで東京税関内の様子を調べてみると、T統括は近く異動するか、辞めるらしい事が分かったので、その事を担当者に伝え、「彼の言うことなど聞く必要は全く無い。放っておけば良い。」とアドバイスして、何事も無く解決したのである。
10・適正な課税(特恵・マグロ缶詰事件)
私は退官後直ちに三菱洋商事の関税コンサルタントとして入社社したが、輸出入の通関業務は、数百社にのぼる通関業者に任せて置いて殆ど問題無いが、税関の事後調査と言うのがあって、納税が的確であったか否か、輸入後調査官が商社に立ち入って調べる制度がある。
或る時、タイから特恵で免税輸入している鮪の缶詰について、税関側はタイでは鮪は捕れない事を確認したうえで「タイで獲れた鮪でなければ、特恵の要件を満たしていない」として、輸入許可後に免税を認めないと言い出し、業界全体の問題に発展した。既に、神戸、名古屋の税関では、課税扱いに変更して不足分を追徴していた。
それと同じ論法で横浜税関が我が社に乗り込んで来たのである。
担当のリーダーは「追徴額は4千万円に上るので、私は左遷され将来は無くなる」と
青くなっている。立場上、私が矢面に立って交渉するが、税関側は徴税実績を上げたい一心で、全く引き下がらない。それどころか「他社は払って居ますよ!」とプレッシャーを掛けて来る。
輸入した缶詰は既に国内で売り渡し、商売は終わって居るので税金の出所は無い。然も、タイ国政府発行の原産地証明書は付いて居り、過去10年間何事も無く免税で輸入していたものを、或る日突然、事後における一片の解釈の変更で2年間も遡って追徴すると言う。
これは行政行為(輸入許可書に税関が印を押している)の公定力(重大明白な瑕疵が無い限り、取り消し出来ないこと)の原則から言っても理不尽なので、「今後の輸入を有税にするのなら従うから、過去の分についての遡及徴税だけは止めて欲しい」と頼んだ。然し税関はそれを認めれば、事後調査の徴税は0になるので頑として聞き入れなかった。私はどうしても納得出来なかったし、何とかして、落ち込んでいる何の落度も無いリーダーを救ってやりたかった。
そこで止む無く改めて特恵関税の法令・規則等を隅から丹念に読み直した結果,関税暫定法施行規則別表の備考の中に、面白い規定(別表改正時の訂正忘れ)を発見した。その備考を使うと、読みようによっては免税で行けるのである。この私の新説に対し各税関は詭弁であるとして、猛然と反論して来たが、私は租税法定主義の建前から訴訟になっても勝てる自信があったので、先ず本省・業務部門を相手に論戦して、これを陥落させた。(担当官から最後に、「良くこれを見付けましたね。裁判をやれば貴社が勝つでしょう。」と言はれた。)
税関との論争中、業界全体では5億円に上る追徴額なので、関係各社は耳目を欹てて居り、業界紙は書きたいと言ってくる。 然し、決着がつくまではと抑えた。
攻防は半年に及んだが、「10年間も支障なく通っていたケースを、事後簡単に覆すのですか!」と、本省の輸入課長に厳しく詰め寄った私の一言が、最後の大蔵部内の議論の際に、決定的に効いたとの事を、私は後に本省内の人から聞いたが、結果は大蔵省としては全く稀有の事ながら、徴収済みの税は還付し、横浜税関も調査打ち切りを三菱商事に通知して、漸く一件は落着した。
この一連の闘いで、私は自分が禄を食んでいる会社の利益を守ると言うよりも、徴税実績を伸ばす為に、無理押しをしてくる後輩達の遣り方に義憤を感じていた。
だから、法の下に安定した商取引が出来る社会秩序を守り、更には、会社の無過失の担当リーダーを護る為に、絶対に勝ってやろうとうと思った。税関側と論争しながら、「もっと、勉強してくれ。公権力を行使する者は、より一層慎重でなければいけない。」と伝えたかった。
この事案に関して私は、退社後数年経っても、現役の人から幾つもの嘘の噂で悪評を立てられて居る事が判明した。その一つに、「尾山さんは滅茶苦茶に頑張って、一年でも長く会社に居たいのだ!」と言うのがあった。
然し、これは全くの出鱈目を出まかせに言っただけである。本件は私が辞める1年前の事であり、その頃会社の大幹部が「大蔵から来た交代要求などは蹴ってしまうから、勤務を続けて欲しい。」と言うのを、私は既に親戚の会社の役員も兼ねていたので、三菱を説得して退社の方向は決まって居た。その証拠には、本事案の翌年に私が予定通り退社している事で明らかです。また、私は今でも自分のした事は、絶対に間違って居なかったと確信しているが、その理由は、本件鮪の輸入が現在でも従来の方式のままで、何等支障なく免税輸入されている事からも明らかだと考えている。
卒寿となったので、別途「遺書」も書きましたが、その最後には辞世を記しました。
悔いは無し 信条(おもい)の儘に 生きたれば
