川崎税関支署の署長をしていた時の事であるが、年末特別警戒の打ち上げで軽く一杯飲んだ後,帰宅するため川崎駅から横浜行きの電車に乗った。車内は割合に空いて居て、立っている人が数人と少なかったので、私は座る事が出来た。
私の席は長椅子の左端から2番目で、左隣の席つまり長椅子の左端には青年が脚を組んで座って居て、その傍らには一人の初老の酔っ払いが、吊革にぶら下がって前後左右に揺れていた。
私は青年の靴先が、酔っ払いのコートに触れているのが気になって、「両方とも
無神経だな。若者も脚を降ろせば良いのに・・・」と思って居た。
やがて不安は的中し、酔っ払いが「おい、脚を下ろせよ!服が汚れるじゃないか!」と言った。青年がどう出るか大変興味を持ったが、彼が「混んでも居ないのに、側へ寄る事は無いだろう。向こうへ行けばいいんだ!」と言うと「何だと!若いくせに生意気だな・・・」と、お定まりの口喧嘩が始まった。
酔っ払いは段々と居丈高に罵り始め、「お前歳は幾つだ!文句が在るなら次で降りろ!」と車内には急に険悪な空気が漂って来た。乗客達は私を含めて、関わり合いになりたくないとの思いで、無関心の態度を装っているが、その実は、事の成り行きに確りと聞き耳を立てていた。然し、青年は意外に大人しく、「解ったよ。
俺が悪かった。」と靴を降ろした。彼の落ち着いた態度には感心し、「これで静かに成るな」と安堵したが、事態はそう簡単に行かなかった。
図に乗った酔っ払いは、その後無言を貫いている青年に対し「大体お前の様な若いのが居るから、世の中が可笑しくなるんだ。この馬鹿!」と暴言を浴びせて止まる事が無かった。この頃になると私は、衆人環視の中でじっと目を閉じて我慢している青年が可愛そうになって来た。
また、此の酒癖の悪い男は足を組んでいる青年の所に故意に近づいて立ち、計画的に因縁を付けてから絡み始めたのだと私は確信した。
仕事を終えて家路を急ぐ人達が、電車の中のほんの一時の安らぎを味わって居た空間で、この男は一人で車内の静けさを破り、無抵抗の青年を罵り続け、此れでもかとばかりに相手を嬲っている。 私は「もう止めろ!」と叫びたかったが、「こんな酔っ払いに拘わりあっても碌な事は無い。」と辛うじて自重していた。
然し、そのうちに男は、相手が何時までも無抵抗で詰まらなくなったのか、「おい親父、お前はどう思って居るのだ!」と、隣に居る私に矛先を向けて絡んで来た。
私は黙って居ても良かったのだが、思わず口を衝いて出た言葉は、「五月蠅い、
黙って居ろ!」だった。それは低く押さえた声だったが、向かい側の全ての客が一斉に目を挙げて私を見た。
男は新しい敵が見つかったとばかり、私に向かって猛然と罵声を浴びせ始めたが、私はもう口を開かなかった。労務対策を担当した経験が有るから、罵られるのは全く平気だが、相手の動きからは眼を離さなかった。それは、若し奴が手を挙げて来たら、左手で払い退ける為の備えだ。
そして腹の中では「こんな下らん男と口を利く必要は無い。何れ横浜に着けば、奴ともおさらばだ。」と決め込んで居た。然し、男は尚も言い募り「俺は19歳の時に志願して軍隊に入ったのだ。お前などは軍隊を知らないだろう・・・」と、得意げに言った時は、思わず「フン」と鼻先で笑ってしまった。
何故なら『自慢じゃないが、俺は14歳の時から陸軍幼年学校で、最精鋭の将校に成る為の猛訓練を受けていたよ!』と、教えてやりたかったからだ。然し、私が無言を続けるので苛立った男が「お前は部長か課長か?そんなに世間体が怖いのか? 悔しかったら、何とか言って見ろ!馬鹿!」と挑発した時だった。
私の右隣に居た30歳位の女性が、キットなって顔を挙げ「五月蠅いわね!あんたの方が余程馬鹿よ!」と、かなりの声量で叫んだ。男は全く予想外の女性の反撃に、一瞬度胆を抜かれたように絶句した。そして「何だ!この・・・」と呻いたが、二人の男の重厚な抵抗の後に、三人目は女性からの思わぬ反撃を食らって、
すっかり戦意を失ったらしく、「馬鹿呼ばわり」をされて居たのに、以後の発言は全く言葉に成らず、唯口の中でブツブツ言うだけだった。
やがて電車は横浜駅へ滑り込み、若者、婦人と私は降りて男は残った。「これで
婦人の身も安全だな。」と私が内心で確認した時、件の若者が近付いて来て「先程は済みませんでした。寝たふりをして居て、貴方にまで迷惑をお掛けしました。」と言うので、「いや、貴方は良く我慢したね。私は自分でも、あの男には腹を立てて居ましたよ。」と応じた。 私よりも背の高い逞しい青年だったが、彼の忍耐強い対応は立派で、礼儀正しい挨拶が誠に爽やかで心地良かった。
また、勇敢な女性の毅然とした発言にも、本当に感服した10数分の一幕だった。
何れにしても、自分の酔いに任せて公衆の面前で人を罵倒し、傍若無人な暴言を吐いて愉快がる悪い癖は、誠に無礼であり絶対に許せない行為だと思った。
