声を楽しんだ人生だと思い、自ら「楽声・ラクセイ」と号したので、人生の最終盤で、私と声との関わり合いに就いて、振り返ってみたい。

 

小学生の頃から、唄は流行歌なども大好きで、低学年の時に「無情の夢」の中から「・・・命を懸けた、恋じゃもの・・・」と、大声で歌いながら帰宅したら、

母親から「馬鹿だね、お前は!」と、きつく叱責された事も有った。

女学生の姉・昌子が歌う歌等も直ぐに覚え、「故郷を離るる唄」等は大好きで、夏休みが終わりに近づいて、水戸の別荘から桐生に帰る日が近づくと、裏の砂山に登って、夕陽に向いこの唄を歌って、1年間の別れ惜しんでおセンチになっていた。

 

然し、音楽に目覚める年頃の思春期を、私は全寮制の陸軍幼年学校で、3年間フルに過ごしたので、その間は軍歌だけを大声で歌う生活だった。

然も、その軍歌と言うのは、巷間で歌われていた一般の軍歌では無く、旧制高校の寮歌・逍遥歌の類で、陸幼・陸士だけで歌われていた「雄叫」と言う題名の軍歌集の歌である。作詞は多くは陸幼・陸士の先輩方の作で、日清戦争で勝ち取った遼東半島を、三国干渉でロシヤ等に奪われた悔しさを、悲憤慷慨するものや、大陸に雄飛する若者の夢を述べたものが多かった。

然し、作曲はせずにメロディは、1高や3高の寮歌の曲から拝借していた。

また、隔離された軍の校内生活でも、流行歌を歌いたくなるもので、姉の昌子が長女・恭子を産んだ知らせを聞いた時は、夕暮れになるのを待って校庭の隅に行き、一人で「誰か故郷を思わざる 」の一節を、「一人の姉が嫁ぐ夜、小川の岸で寂しさに・・・」と、低唱していた。

 

敗戦で復員してからは、自由になったので流行歌の「リンゴの唄」「新雪」「山小屋の灯」等を熱唱した。

勤め先の横浜税関では、混声のコーラス部に属してセカンド・テナーを歌って居たが、フォスターの歌や、賛美歌・山の歌などが多かった。

陸務課の巡察の時は、部下に若手の男性が数多く居たので、自ら男性コーラスを組織・指揮した事もあった。

 

また、同じ頃謡曲部も発足したが、尾山家は祖父・父・叔父と皆が観世流の謡をやっていたので、私も直ちに入部した。 然し、税関の会は喜多流だったので、そのまま今日まで喜多流で通している。(謡の関係は、謡の部の記述に詳しい。)

 

やがて、バブル時代になるとカラオケの全盛期となったが、私も大好きだったので、のめり込むように歌っていた。

函館に居た頃が最盛期で、或る日の帰宅途中、「カラオケ大会」と大書した看板に釣られてキャバレーに入り大会に参加した。結構客も結構入って居て、一応確りしたバンドも出ていた。 大会はソロの一部と、デュエットの二部があり、審査員はバンド・マスターと支配人だった。

私は歌の上手そうなホステスを予め見つけて置き、両方にエントリーした。

全員が歌い終わると、支配人が来て「困りました。お客さんが両方優勝ですが、賞品が同じなので、どうしますか?」と言うのだ。「二部は二等賞で良いよ。」と、2個の賞品を貰って帰宅した。港町の一寸した余興だがやはり愉快だった。

ところが翌朝出勤すると、総務部長の本田君が笑いながら来て、「税関長、余り変な所で歌わないで下さいよ。」とたしなめられた。 誰かが見ていたのだ!

私は、途端に夏目漱石の「坊ちゃん」の中で、漱石が隣町の温泉へ行くと、翌日生徒が皆その事を知っている場面を思い出して、思わず苦笑した。

 

親睦会でも、私は熱心にカラオケを歌って居たが、佐藤夫人から地区の老人会で独唱する様に言われ、2曲歌った件は、「その他」(総括)の項で詳しく述べたので割愛する。




尾山喜一 拝




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