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少年期

昭和3年8月17日、私は群馬県桐生市で生まれたが、軍国主義時代の真只中に少年期を過ごした。父は建築家で兵暦は無かったが、祖父の弟は小田原藩士の三男で、後に、陸軍中尉で日清戦争に従軍した経歴がある。

また、隣家・藤田家の主人は、桐生工専(現・群馬大学)の配属将校をして居た陸軍大佐(陸幼出身)で、そのお宅とは親しく交際していたので、私は至極当然に陸軍将校に成る事を熱望するようになった。

小学校での成績は良く、卒業式では250名の総代で答辞を読み、私は陸軍幼年学校への進学を決意した。然し、地元の中学からは成績優秀者が何人かトライするが、中々合格出来ない事を知り、「幼年学校への進学率が日本一高い東京の私立成城中学に入りたい。」と父に願い出たら、喜んで即座に許してくれた。

然し、自分から言い出した事とは言え、13歳の少年が都会で一人下宿して受験勉強をするのは辛かった。ホームシックと闘いながら、懸命に勉強して首尾よく1年修了(現役)で合格することが出来た。3年間の訓育を経て卒業し、陸士に進んだのは昭和20年の春だった。そして、半年足らずで終戦となり、陸軍将校になる夢は挫折し、当時父母の住んで居た足利の家に復員した。

 

2・ 戦後の進学事情                                                                     

暫くは呆然自失の態だったが、やがて進学を考えるようになった。

軍人が駄目なら、今度は旧制高校から帝大だと思い、前年の高校入試問題を取り寄せて見ると、英語以外は皆非常に易しかった。陸幼、陸士では勤労動員などは無く、理科系に重点を置いて、みっちり勉強していたからである。

然し、私の場合陸幼での語学はロシヤ語専攻だったので、終戦時の英語の素養は、陸幼に現役合格のため、3年半前に習った中1の学力しか無かった。

これでは如何に当時の入試英語のレベルは低かったと言っても、直ちに受験するのは無理だった。

1年間英語だけ特訓してトライしょうかとも考えたが、夢が破れた挫折感も在り、更に1年通った中学(進学の助言等をする所)は東京だし、戦後の猛烈な食糧難の時代に再び下宿し、無理して受験勉強する気力が湧いて来なかった。

我が家の経済事情は大学進学が可能だったが、やむを得ず、文科系人間の私には向いていないと承知のうえで、手近な宇都宮農専に入った。農芸化学を選んだのは、一番農作業から遠く、潰しが利きそうだと思ったからである。



尾山喜一 拝




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