昭和32年秋、私は横浜税関の役付きになったばかりで、未だ係長にもなっていなかったが、自分等の住む家を探していた。

当時の官舎事情は、国有財産を管理する大蔵省と言えども劣悪で戸数も少なく、係長以上か遠隔地からの転入者でなければ、申請しても入居出来なかった。
そうなると、後は間借りか借家しか無いが、公務員の安月給のうえに高い家賃を払うと暮して行けない。それなら、給料が少ないからこそ思い切って自分の家を持とうと、逆転の発想で一大決心をしたのである。
当時、私は新宿の父の家から横浜へ通って居たが、勤め先に近い所が良いと横浜を始め鶴見、大船辺まで家を探したけれども中々良い物件が無かった。

丁度その頃、上司の課長と同期の人で、若い頃に横浜ゴム(株)に転職した人が良く課長の所へ遊びに来ていた。この人は私の叔父が横浜ゴムの社長をして居ている事を前から知っていたので、私の家探しの件を課長から聞くと、「会社では持ち家制度を進めるため、横浜の社宅を社員の希望者に払い下げて居る。叔父さんに一つ頼んで見たらどうですか。」と、他からは絶対に入らない貴重な情報を寄せてくれた。

私は早速叔父の家を訪ね用件を切り出すと「馬鹿者!安月給の身で家を持つなんてとんでもない。」と一喝された。
然し、私は諦めなかった。数日後また行って待つが社長の帰りは遅い。私は従兄弟(養子に行った実の兄)と碁を打ちながら待つ。酒気を帯びて疲れて帰って来た叔父の機嫌は、当然の事ながら極めて良くない。お手伝いさんに肩を揉ませながら「あれは社員に売るのであって、社外の者には売らない。 第一、組合がうるさくて駄目だ。」と取り付く島も無いが、全く尤もな話である。

然し、「家を持ちたい。」の一念に燃えていた私は簡単には諦めなかった。又出掛けて、待って、ひたすら頼んだ。其のうち叔父は「一体お前の親父は何をしているのだ。」から始まって、実の兄に対する不満をぶち始めた。
これは応えた。矢張り自分の親を悪く言われるのは辛かった。じっと下を向いて聞いていると、涙が出そうになり「分りました。もう御願いしません!」と言って席を立ちたい誘惑に何度も駆られたが、ぐっと堪えて我慢した。
何度か頼みに行っているうちに、叔父も根負けしたのか或いは骨肉の情からか、「では、社員には年賦だが、お前は社外人なので即金で、値段も少し高くしてなら社内の同意も得られると思うから、売っても良い。」と言って呉れた。
私は張り詰めた気持ちが緩んで体から力が抜けて行く思いだったが、御意の変わらぬ内にと素早く礼を述べて辞去した。

早速、あちら・こちらから借りられるだけの金を借り集め、指定の金額(今なら只みたいな、100万円にも満たない額だったが、当時では月給の数十倍に相当する金額だった)を持って行った。その時叔父は少し驚いた様子だった。恐らく、金策が出来なくて諦めるだろうと思っていたのかも知れない。
しかし、後は約束に従って事を進めるだけだった。
その家は相鉄線・希望ケ丘駅から数分の所にあり、南向きの高台で100坪を超える宅地に小さな古い家が建っていた。相鉄の第1回の分譲住宅を横浜ゴムが社宅として購入したものであるが、家は終戦後間もない頃の安普請なので木口も悪く、しかも長い間空家だったので廃屋のようだった。
(購入後、1級建築士の父は自分の技術と資金を注ぎ込んで、この家を立派に住めるようにして呉れたので、15年程住んで今の家に建て替えた。)

勿論、この物件の価値は土地に在ったのである。未だ、地価の安いのんびりした時代の分譲地だったので、実際の坪数は「縄伸び」と称して登記簿上より多いのである。

又、心配したローンの返済も、其の後の猛烈なインフレで、思いの外簡単に返せたが、現在ではこの土地の価格は、私が得た退職金の何倍かを注ぎ込んでも買えない金額になっている。

今や、お世話に成った叔父も父も、皆故人となってしまったが、私達は多くの人達の好意と、幾つもの幸運に恵まれて、この土地に住む事が出来たのだと心から感謝し、何時までも、此の土地を大事にして行きたいと思うのである。




尾山喜一 拝





・現在の我が家の様子。
横浜の我が家